見学:お話
司 東

 皆様,本日はようこそ智積院においでくださいました。洛東のこの場所に智積院が再興されましてから400年余りが経過してございます。京都の中ではまだ短いものでしかございませんけれど,智積院のことについて少しお話をさせていただければと思います。

 私は財務部長ということで智積院執事という役職を賜っております司東和光と申します。出身は岩手県。住んでいるのも岩手県ですが,東北地方からここへやってきております。若い時にここで修業しましてから33年ぐらいでしょうか。久しぶりにまた京都に来ておりまして,京都の良さを再認識しているところでございます。今日,皆さん方は京都市役所も一緒になって開催している「京都創生連続セミナー」に参加されています。様々な京都の見直しとか発見のための事業をされている,本当に素晴らしいことだなと思います。一部,新聞紙上で切ないようなこともありますけれども,こうして一生懸命京都のために働いていただいているわけでございます。

 先般,「鵜飼サミット」というのがございまして,京都では嵐山と宇治川で鵜飼をやっています。実は去年,宇治川の鵜飼を見に行きました。嵐山の鵜飼はまだ見たことがないんですけれど,宇治川には女性の鵜匠の方がいらっしゃって,全部で数人しかいらっしゃらないということで,新聞などでも顔写真入りで出ていました。そしたら今年は女性の2人目が出るとかいう話を聞きました。鵜匠の世界にも女性の波が出てきているんですね。

 新聞記事による情報ですが,全国各地,まあ一番有名なのは長良川でしょうが,そういった方々でサミットを開いて鵜飼の良さを通じて日本の芸というか,伝統文化を継承していこうという試みを行われているようでございます。そういったことも含めまして,行政に関係する方をはじめとして京都の市民の皆様は,京都を日本,そして世界に広めていこうということに対しまして素晴らしいことだなと思います。

 聞きますと4700万人ぐらいの観光客がこの京都に来ていただいてるようでございます。私の故郷には「えさし藤原の郷」という観光地があるんですけれども,一年間に100万人ぐらい来ると,もうすごいって喜んでいるのですが,とてもとても桁が全く違う話なものですから,本当に京都はすごいと思っております。

 昨年,大河ドラマ『義経』が行われました。あの義経に縁があるのが岩手の平泉でございます。大河ドラマがロケされたのは8月・9月,岩手県江刺市だったんですけども,私はそこの江刺市のものでございまして,京都は義経でも,御縁もあるなと感じています。

 私は,今はこうして寺の役員をやっておりますけれども,2,3年前までは江刺市役所の公務員だったんです。坊主頭をした公務員で,行政に携わっていました。その頃に「藤原の郷」を作るということで,誘致活動などもありまして,大河ドラマなどのロケを通じて,私も観光が非常に大事だなという認識を持ち始めました。

 本日は,レジュメを作って参りました。「何か難しいことを聞かされるのかな」と思っておられるかもしれませんけれども,そこにあるくらいのお話は30分ではお話できないんです。ですから本当に掻い摘んでしかお話できませんけれども,智積院というお寺がどういう事情があってここに来たのかというお話をして今日は終わるんだろうなと思います。

 智積院の名前は,五百佛山根来寺智積院というのが正式の名前です。根来寺というのは皆さん聞いたことございますか?和歌山の紀ノ川沿いにあります,西国三十三ケ所霊場で言いますと粉河寺があります。あの1〜2キロ手前にあります。根来神社などが有名ですかね。あとは塗り物で根来塗があります。実は,この智積院は紀州にあります根来寺からこちらに移ってきたお寺です。戦国時代に事情があって移って参りました。その根来寺の発祥,もともとは高野山金剛峰寺。高野山から根来寺ができて,その根来寺の塔頭寺院であった智積院が京都のここに流れ着いた。こういう歴史であります。「功名が辻」というドラマをやといますね。今ちょうどその場面で,秀吉が淀君との間に,鶴丸という子供を授かります。その鶴丸を弔うために建てたお寺がこの場所にあった。祥雲寺,または妙心寺派の臨済宗のお寺ですから祥雲禅寺と申します。今から400年ぐらい前に秀吉とか淀君とかがお葬式に来たのです。だから皆さん京都の人というのは歴史上の有名な人がいたところに座ったりしてらっしゃる。すごいことですよね。奇しくもこの3回目の前の2回目のセミナーが妙心寺さんで行われたということですから,御縁があったのかなと思います。今は真言宗智山派の智積院となとおりますが,戦国の末期,桃山の最盛期の頃には妙心寺派祥雲禅寺というお寺だったんです。

 その場所に何で智積院が来たかというお話を,今,したいと思います。実は根来寺はすごい寺領を持っていました。70万石。江戸時代で言うと,加賀百万石といいます。ですからそれだけの寺領が根来寺にはあった。当時は僧兵がたくさんいたんです。僧兵といいますと京都の比叡山の弁慶みたいなイメージで長刀を持ってる僧兵をイメージするかもしれませんが,この根来寺の僧兵は延暦寺の僧兵よりもずっと時代が下がったせいもあって,もっと近代的な装備を持ってるんです。何が近代的かというと,鉄砲を持っていたんです。鉄砲の主要な生産地は大阪の堺ですけれど,その隣に位置していたということもあり,根来寺は鉄砲軍団と言われて70万石分の僧兵がいたんです。信長も,かなり先進的に意欲的に集めて鉄砲軍団を形成していましたけれど,その信長の鉄砲軍団に,一部来ていたのが,実は根来寺から派遣された傭兵達だったと言われています。信長という人は比叡山の焼討ちが有名ですけれど,2番目に有名なのが高野山の焼討ちをやったんですね。そういうことで次第に信長とか秀吉の勢力に根来寺は色々と反感を持つようになっていったようで,小牧長久手の戦い,戦場は愛知県の小牧と長久手なんですけれど,その時に秀吉の軍勢の多くは愛知県の方に出払って,大阪は空に近いような状況になったんです。その時に,実は根来寺の僧兵団は岸和田の辺りまで,根来寺から山を越えて秀吉の勢力を攻めに行ったんです。家康と組んで秀吉軍を困らせていたわけですね。ところがテレビでもあったように,織田信雄が徳川と連合軍だったんですけれど,徳川家康と相談しまして和睦をしますなんて言うんです。それで一番困ったのが根来寺です。秀吉から大変な敵対をされることになりまして,70万石の寺領を35分の1の2万石,根来寺の周辺だけに寺領を減らすのであれば許してやるけれど,そうでなければ放ってはおかないぞ,という通告をされるわけです。ところが根来寺のほうは70万石という勢力もありましたし,僧兵,鉄砲もあったわけですから,おいそれと「はい」とは言わなかったんです。それで戦争が始まりました。これが有名な秀吉の紀州攻めと言うんです。秀吉は高野山を一緒に攻めようとしたんですが,高野山は木食上人応其という和尚さんがいて秀吉と懇意な和尚さんだったようですね。高野山との間を取りまして,高野山はその時,焼討ちを免れて,降伏して安堵されたのですけれど,根来寺のほうは木食上人のあっせんを拒否して戦が始まってしまいました。その戦争が始まったのが天承13年。ところがですね,70万石に見合う鉄砲とか僧兵があったにもかかわらず,たった2日目には敗れてしまうんです。非常にあっけない敗戦です。大阪のほうに西山寺というお寺があるんですね。一向宗。顕如という親鸞の10代ぐらい前ですかね,この人の時に石山寺,石山本願寺も戦争しましたが,こちらは信長との真っ向勝負をやって10年間も戦ったんですね。浄土真宗の方々は10年間も戦ってるのに,真言宗はたった2日で敗れてしまうという,「実にあまりにもあっけないなあ」と若い時には思いました。でも,人生もそれから30年も生きてきますと少し感じ方が変わってきまして,今は必ずしもそうでもないと思っています。

<つづく>

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