司会

 それでは、パネルディスカッションを開始致します。出演者の皆様を御紹介させていただきます。向かって左から、コーディネーターの吉澤健吉京都新聞社報道局次長兼報道企画室長。パネリストの大津光章京都いけばな協会会長。栗山裕子社団法人京都府建築士会副会長。田中誠二学校法人大和学園副理事長。それではここからは、吉澤様よろしくお願い致します。

パネルディスカッション
吉澤

吉澤氏  皆様こんにちは。今日は朝から秋晴れのすがすがしい良い天気になりまして、良かったです。雨がちょっと降ったりぐずついたりしますと「今日はちょっと出かけるのやめようかな」なんて気分になるものですが、今日は秋晴れのおかげでこんなにたくさんの方々においでいただきまして本当にありがとうございます。朝晩、非常に冷え込んでおります。日中は真夏のように暑い日がございまして、私のまわりも風邪をひいている人がたくさんいるんですけれども、皆さんはいかがですか。寒暖の差がきついと紅葉がものすごくきれいだと聞いております。昨年、一昨年と、寒暖の差が無かったんで、なんだか茶色い紅葉を見て、東京や他所から来た方々はこれが京都の紅葉だと思って帰られたんでしょうけれども、京都の我々からすると「ちょっと汚いなあ」という年が続きました。もしかして今年はきれいな紅葉が見られるんじゃないかという気がしております。今日、ここからは京都人による京都創生というテーマで地元の方々によるパネルディスカッションということになります。1時間ほどの短い時間ですが、皆さんよろしくお付き合いいただきたいと思います。

 私ども、外向きの京都、内向きの京都と言います。特に観光客や他府県から来られた方から見たきれいだなあと思う京都と、そういう方々による、例えば大学の先生とか専門家の方々がここに並ばれるディスカッションがよくあります。そうすると京都人から見ると「ちょっと違うんじゃないか」「きれいに見すぎてるんじゃないか」と「それはちょっと外面的だぞ」という御不満もあるかと思います。やはり、いくら外から見てきれいな京都でも、それを支えているのは京都の市民一人一人が並々ならぬ苦労の下にこれを支えているわけでございまして、そういう方々に直接京都人の立場から御発言いただこうというのが今日のパネルディスカッションの主旨でございます。まあ、京都人による京都創生と言ったらよろしいんでしょうか。今年は、特に京都創生にぴったりのテーマ。景観と文化と観光という分野からお一人ずつ代表に出ていただいて御発言をいただくことになっております。

 そうしましたら最初に、3人の方々に御提言をいただきたいと思います。最初に大津家元にお願いします。大津家元は京都いけばな協会の会長でいらっしゃって京都市芸術文化協会の副理事長でもいらっしゃると同時に、御自身、都未生流の家元であられ浄土宗の僧侶でもいらっしゃいます。「華道京展」とか「新世代いけばな展」で、いつもリーダーシップを発揮していらっしゃる方で、大津家元のニックネームといいますか、「エキサイティングいけばな」というのが大津家元のタイトルでございまして、御覧のとおり非常にお若く、エキサイティングな家元でございますので、御発言もエキサイティングな発言でよろしくお願い致します。

大津

大津氏  皆さんこんにちは。今、吉澤さんから若いというような御発言がございましたけれども、安倍総理と同い年でございまして、外国のほうに目を向けますとカンフーのジャッキー・チェン、日産のゴーン会長。もっと他に誰かいないかなと思ってみましたら石田純一。そういう年代です。

 先日「日本いけばな芸術協会」という全国的な組織がございまして、常陸宮様が総裁になっておられますが、その地方展で、熊本へ行っておりました。町並みも繁華街を通りますと本当に大都市と全く変わらない非常に大きな地方都市でございますし、なおかつ、コンビニに入りますと、同じような商品の陳列があって全然九州に来てるような雰囲気がなかったのです。昔はハレとケと申しまして特別な日と日常の日というようなことがちゃんと区別してあったわけですけれども、非常に便利なコンビニがまちの中心部に出ることによって、どんどん日常の境が無くなってきたような、よそ行きというような言葉も無くなってきたような、そういう気がします。

 京都市には、芸術文化協会というのがございまして、ここは伝統芸能をはじめと致しまして、洋舞、演劇、あらゆるジャンルの人達が集まっておられる協会です。これほど多種多様な、しかも一流どころの方々が集まっている協会というのは、本当に他所ではあまり見られない、非常に京都ならではの集まりで、色んな可能性を含んでいるところではないかな、と私は考えているのです。まあ、それをどう機能させ、活動させていくのか、というのが今日のテーマの中にも出てくるのではないかと思います。

 文化というもの、一口に文化と言いますけれども、非常に分かりにくいものでして、午前中に広辞苑でひっぱっておったんですが、調べれば調べるほどなかなか分かりづらいものがあります。もう十何年か前にKBS京都が制作致しました、『きのう きょう あす』という京都の未来を考えるような本がありまして、それがちょうど本棚にありましたので、見ておったんですが、一言で言いますと文化というのはその地域の人々が所有する情報の総量である、というような一文が載っていたわけです。情報と申しましても、上質で希少価値のある、しかも一過性のものではなく非常に長い年月をかけて淘汰され、しかもそれが生き残っている情報。そしてそれらの情報が比較的取りやすいしくみになっている。こういうようなものが文化だと載っておりまして、誠にそのとおりだなと思ったわけです。それらのことをもう一言簡単に言いますと、値打ちのある生活、これが文化ではなかろうか、と思います。

 私は6代目の代を継いでおるわけですけれども、よく小さい頃先代が言っておりましたのは「おまえ、上等に生きなあかんで」ということを申しました。「上等に生きる」とは何も良い暮らしをせえとか、贅沢をせえというようなことでは決して無いんですね、いわゆる本物を常に見て、本物を見分ける感覚を養わなければならないと。これが、上等に生きる、上等な感覚を習得する。こういうような生活をしなければならない、ということをよく言われていたわけです。桑原武夫先生は、初めて「文化力」という言葉を作られたと聞いております。最近は経済力ということが言われますけれども、文化力、文化のある社会を動かしていく力、これが文化力というような意味だと思います。第二次世界大戦で唯一災害を除かれたまちが京都であります。この京都がどうして除かれたのかというと、やはりそれほど文化的な価値の高い建物が集約していた。そう考えますと、文化というのはある意味、武力とか戦争とかそういうものまで乗り越えるすごい力を持っているんではなかろうかと思うのです。

 京都いけばな協会の仕事に、京都御苑の中に創立されております京都迎賓館の来賓の方々が来られるたびにお迎えの花を生けるという仕事もしております。過日、ある宮様と中米の方の大統領が日を別にして来られたことがございまして、その時に新しい飾として熨斗飾をお飾りなさっておられたんです。皆さん、熨斗というのは御祝いのとき、御見舞いのとき、あるいは弔辞の黄白、黒白。こういうようなことをお考えになられると思います。御祝いの時には紅白という感覚がありますけれど、実際、京都の方々でも紅白の色というのを知っておられる方は少ないのではないかなと思います。ほとんどが赤白、源平の旗のようなああいう赤白が紅白というように思われがちですけれども、本来の紅白というのは玉虫色の幾重にも染め抜いた、一見、黒色に近いような色。「くれない」という色ですね。それと白が紅白ということになります。この水引は手にさわりますと赤いしるしが付きます。ですから大切な方に贈り物する時に紅白、そのくれないと白の水引でくくるというのは封印の意味もあるわけです。ですから一度くくってしまってそれを取りますと、白いところに色が残りますから、次に結び直すということができないわけです。こういうようなものが紅白の水引なのです。今は、宮中の行事にしか使われてなくて、私達もほとんど目にすることがないので、久しぶりに目にして懐かしく思ったことがございます。

 それと同じようなことで、先ほど吉澤さんのお話にもありましたように、私はお寺の住職もやっておりまして、最近、御葬儀の時には黒白の幕を飾りますけれども、これは最近のことでして、私も子どもの頃記憶してたのは、浅葱色と白の縦じまの幕であったと記憶しております。新撰組の羽織、あれも本当は不吉な色の浅葱色、要するに水色みたいな色ですね、それと白の羽織であったんですけれども、あまりめでたい色ではなかったというように聞いております。それがどうして黒白になったのか、ということを言いますと、やはりだんだん東京のほうの文化というものが京都に入り込んできてそういうようなことが忘れ去られていく。しきたりというものが非常になくなってきている。こういう寂しさと言うものが非常にあるのでございます。

 伝統的なものを守っていかなければならない、と言う面はありますが、いけばなで考えますと、戦後間もない頃「前衛いけばな」というものが一世を風靡した時代がございます。美術の世界でも前衛美術というものがどんどん出ておりまして、その前衛いけばなというのは片方では厳然として床の間に花を入れる。あるいは形式、形というようなものがしっかり備わっているものが片方にある。こういうものに反抗して、新しいものが生まれていった経過があるんです。そう考えますと、この京都というものは積み重ねていった非常にすごい情報量、それからしきたり、伝統、こういうものが厳然としてあるのですけれど、それがどんどん失われていくような現状にある。これからの新しい京都ということを考えていきますと、やはり文化力をしっかり認識する。そしてやはりどんなしきたりがあったのか、ということを知る欲望、知る力ということを我々はもう一度考えなければならない。そして一方で非常に最先端な新しいものが生まれていく土壌が作り出されていくんではなかろうか。こういうことを考えていく必要があるのではないかと思うわけです。

 最後にもう一つだけ。ぶどう酒の諺が外国にございます。これは、おいしいぶどう酒を造ろうとした時には羊の皮袋を、新しい皮袋にどんどん変えていって、そしておいしいぶどう酒を造っていくと、こういう諺です。決して伝承ではなく、伝統というものは繰り返し再生し、新しいものを作り出すというようなことを片方で持っていなければいけないのではないか。こういうことが、一言で言えば文化力を高めるということではないかと考えるのです。

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