趣旨説明
「国家戦略としての京都創生」の取組について

京都市総合企画局政策企画室 京都創生推進部長
西野 博之


 皆様こんにちは。ただ今ご紹介頂きました京都創生推進部長の西野でございます。本日は第17回目の京都創生連続セミナーを開催いたしましたところ、たくさんの皆様にご参加いただき、誠にありがとうございます。

 さて、皆様もご存知のとおり京都が誇る四季折々の美しい自然景観や、寺院、神社、そして吉田先生のお宅を始めとする京町家などの町並み、さらにはこのような風土に受け継がれ,磨き上げられてきた伝統文化などは、世界の宝、日本の貴重な財産です。

 このような「歴史都市 京都」を守り、育て、そして未来へ引き継いでいくために、京都市では市民の皆様とともに、全国に先駆けて様々な挑戦的な取組を進めています。

 京都市の取組ですが、大きく3つの分野、具体的には、「景観」「文化」「観光」の分野にわたって進めています。

 まず景観の分野ですが、平成19年から市民の皆様の多大なご協力をいただきながら、全国で最も厳しいと言われる建築物の高さ規制や、眺望景観の保全などの「新景観政策」を実施しています。また、京町家の修理等に対して京都市独自の助成も行っています。

 また文化の分野では、市内14箇所の世界遺産をはじめ全国の約19%が集まる国宝、約15%が集まる重要文化財など、歴史的・文化的資産の保存・継承を進めています。

 さらに観光の分野では、外国人観光客や国際会議の誘致などに積極的に取り組んでいます。

 しかし、京都だけがいくら努力しても解決できない課題が数多くあります。

景観と文化の保護

 「景観分野」についてです。京町家は現在、約48,000軒残っていますが、相続税や維持管理の問題等で継承することが困難なために、毎年約2%が消失しています。そこで京町家を守るため、京都市独自の制度として、平成17年に「京町家まちづくりファンド」を設け改修にかかる費用を助成していますが、京都市だけでできることには限界があります。

 京町家を残していこうとする場合には、相続税といった国税の問題や、建築基準法といった国の法律の問題等がネックになっているのです。

 2つ目の無電柱化ですが、電柱のない美しい町並みを作り出すためには、1km当たり約7億円という巨額の費用が必要となるといった財政面での課題があり、なかなか進みません。今のペースで計画を達成しようとすると,平成95年になってしまいます。

 一方,「文化」についても伝統文化や伝統芸能、伝統産業など、京都には他の都市にはない独自のものが受け継がれていますが、現在、後継者不足などから危機的な状況にあるものも少なくありません。

 このように日本の原点ともいえる京都の景観・文化は、担い手や所有者だけに任せていたのでは、この先なかなか守りきれない面があり、一刻の猶予も許されない状況にあります。

 そのため、これらを保全・再生するためには国による支援が何としても必要となっています。

国家戦略としての京都創生

 そこで「国家戦略としての京都創生」という考え方が必要となってくるのです。京都市では、「国家戦略としての京都創生」の実現に向け三つの柱、「国への働きかけ」、「市民の自主的な活動を支援する取組」、「京都創生のPR」を軸に取組を進めています。

 特に「国への働きかけ」が最も重要です。国に制度面や財政面で特別な対応をしてもらえるよう、提案・要望を行っています。また、国の関係省庁、有識者の方々、京都市職員とで研究会を開催し、国の幹部に対して直接、京都の実情を訴えながら国と京都市が一緒になり、京都の役割や活用方策の研究を進めています。

 そして京都創生の主な取組成果は、これまで国への働きかけなどを通して、提案・要望のいくつかは既に実を結んでいます。

 まず景観の分野では、「景観法」や「歴史まちづくり法」という法律に基づいて指定された京町家や歌舞練場など重要な建造物を修理する場合などに助成する制度がつくられ、こうした制度を活用しながら歴史的建造物の改修、無電柱化、道路の美装化などを推進しています。

 次に文化の分野です。まず、「関西元気文化圏推進・連携支援室」の設置ですが、京都市をはじめ文化財が数多く残っている関西に文化庁の窓口を設けてもらうよう、国に対して働き掛けてまいりました。この結果、京都国立博物館の中に文化庁の分室が設置され、要望の一部ではありますが、実現しています。また、市が所有・管理する二条城では、国の補助制度を活用し、二の丸御殿、本丸御殿等の本格修理に向けた調査工事や障壁画の保存修理を進めています。しかし、二条城の本格修理となると、やはり多額の費用が必要となります。そのため京都市では、修理にかかる費用を確保するため、「二条城一口城主募金」のご協力をお願いしています。

 さらに文化財の防災面でも、国が新たにつくった補助制度を活用し、清水寺やその周辺の文化財と地域を火災から守るため、高台寺公園地下と清水寺境内の2か所に25メートルのプール5つ分に相当する 耐震型の防火水槽を整備し、法観寺境内には文化財の延焼を防止するための放水システムを整備しました。

 次に観光の分野です。観光分野では今年1月から、「観光立国・日本 京都拠点」ということで、観光庁と京都市で、外国人観光客誘致の活動や受入環境の充実などに取り組むための共同プロジェクトを実施しています。これは、京都を世界トップ水準の受入態勢に整えることで、全国のモデルとしようとするものです。この共同プロジェクトを通して、政府が目指す観光立国の実現に向け、京都が牽引的な役割を果たしていきたいと考えています。

 この他の成果もあります。一昨年、京都市がニューヨークで実施した「京都創生海外発信プロジェクト」により、世界の文化遺産の保護・保全活動を行っているワールド・モニュメント財団から、京町家を改修し活用する「京町家再生プロジェクト」に対し、総額25万ドルもの財政支援を受けることができました。また、今年10月には、「京町家」の歴史的な重要性や暮らしの文化が高く評価され、「京町家群」がワールド・モニュメント財団から前回に引き続き、「保存・修復が必要な文化遺産」としてリストアップされることが発表されました。これにより、世界に向け「京町家」の持つ文化的価値やその保全・再生の必要性が広く情報発信されることが期待されています。

 このように、「京都創生」の取組によって、国において景観や歴史まちづくりに関する新たな法律や補助制度がつくられ、これが京都の歴史的景観の保全・再生や文化財の保存・継承の取組に大きな効果をもたらしています。さらには、京都が全国の自治体で進められている歴史・文化を活かしたまちづくりを牽引するという役割も果たしています。ここに「京都創生」の大きな意味があると考えています。

京都創生推進フォーラム

 この「京都創生」の取組は、ただ単に国に求めるだけではなく、地元京都でも市民の皆様や企業、団体と京都市が手を携え、オール京都で進めていかなければなりません。そのため,「京都創生推進フォーラム」を中心に、取組の周知や市民の皆様の自主的な活動を支援し、京都創生を推進していこうという機運の醸成を図っています。

 また,今年2月には、首都圏で「京あるきin東京」という事業を初めて開催しました。京都ゆかりの企業・団体・大学の皆様にも参画いただきながら、京都の魅力を集中的に発信し、マスコミにも多く取り上げられ、京都市などの主催事業だけで、約15万人もの方々に参加いただきました。

 今後も京都の持つ「強み」を最大限に活かし、魅力を更に高めることにより京都から日本全体を牽引し、日本を元気にしていくという気概を持ち、百年後、千年後も「日本に、京都があってよかった。」「世界に、京都があってよかった。」と実感していただけるよう、取組をさらに進めて参りたいと考えています。

 最後になりますが、皆様方の一層のご支援と、ご理解・ご協力をお願い申し上げまして、京都創生の取組報告を終了させていただきます。





講 演
『京町家・四季の暮らし』



財団法人祇園祭山鉾連合会理事長
吉田 孝次郎 氏


山鉾行事を支えた座付きの商人たち

 私が住んでおりますのは新町通沿いの、六角通と蛸薬師通の間、六角町です。新町通は、平安京の町尻小路にあたり、1200年もの間、人々が歩いてきた道です。私の住んでいる場所にも、平安京創設以来1200年の営みがあります。

 私は、祇園祭山鉾連合会を昨年8月から束ねることになりました。山鉾行事は、3年前に無形文化財として世界遺産に登録されましたが、私自身は祇園祭という祭祀の中から、宗教行事を一切無視した形で、山鉾行事だけを抜き出して世界文化遺産に登録されたことに関しては不満を感じています。山鉾行事が長い祇園祭の歴史の中で、どのような時期に、どのような位置を占めていたかを説明しなければいけないと思います。そもそも山鉾行事が1142年前の869(貞観11)年に創設された「祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)」の中に組み込まれたのは、14世紀後半ばのことです。「祇園御霊会」が創設されて500年ほど経過したときに、この地域に住んでいた人たちの経済力、見識、熱意などにより、神様の目に美しいものをお見せし、美しい音楽を聞いていただき、自分たちの生活が安穏になることを願った、というのが始まりです。

 つまり、長い「祇園御霊会」という祇園祭創設期から現在までの1142年間の歴史のうち、約半分の歴史しか持っていないのが山鉾行事なのです。

 山鉾行事を支えた人たちは、南北朝の終わりころから室町時代にかけて台頭してきた、座付きの商人たちです。座付きの商人とは、ある特殊な商品の特権販売を保証されている商人のことを言ったのですが、この辺ですと「小袖座」、「綿座」という二つの座付き商人が一番大きな商権力を持っていました。「綿座」の綿というのは、木綿の綿ではなく絹綿のことです。紡ぎ糸のもとになる絹製品全体を綿座と言います。「小袖座」というのは、それで布をつくり、デザインを施し、配色して美しい衣服をつくるという意味をさします。これらの商人たちが、営業の保証をどこから得ていたかというと、八坂神社からです。八坂神社の庇護の下に、この辺りの商人たちは、ある特殊な商品を専売することの保証、後ろ盾を持っていたのです。そのため、八坂神社の氏子町というのが、東山の方からずっと外にまで広がっており、かなり広い範囲で座付きの商人たちが活躍していたのです。

 いま、辛うじて座の名前が残っているものに、「釜座町」という町名があります。そこには現在でも、茶釜をつくっている家が存続していますが、かつては茶釜だけをつくっていたのではなく、煮炊き全体に利用できる鋳物による釜をつくっていました。また、「炭之座町」という町名にも、商売の座の名前が残っています。近世初頭の座の名残がこの二つの町内にはあります。

 他に町名を見ていくと、「小結棚町」という町があり、「烏帽子屋町」という町もあります。小結棚とか烏帽子屋というものは、座付きの商人よりもっと小さな単位で、「烏帽子屋町」は、一町内で烏帽子を扱う商人が集まっていたことを表しています。このように中世の最末期、近世の初頭にかけて、座付きの商人たちが、この辺では活き活きと商売していたことがわかると思います。

 私の町内では何をしていたかというと、「六角町生魚供御人(なまうおくごにん)」という名前で、鎌倉時代から歴史に残っています。供御人というのは、ある特殊な商品を御所に納める特殊な権利を持っていた商人のことです。京都は山城国ですから海産物は非常に珍しく、新鮮な魚は非常に貴重な商品だったのです。そのため、琵琶湖で捕れた生きた魚を運んで、御所に納めていたのです。京都の人たちは御所とつながることを非常に名誉に思っていたのでしょう。私の住んでいる「六角町」からもう一町西へ行くと、「池須町」という町名が残っています。そこでは、恐らく魚を生かしながら、そのまま魚を納めていたのだと思われます。魚だけではなく、"かわらもん"と言って、アワビの干したもの、ナマコを干したもの、フカヒレもあったかもしれません。京都のことですから、高級な干物ものを売っていたはずです。

 このように、かつてこの地域には、小袖、あるいは綿の絹織物中心とし、非常に富める人たちが住んでいて、山鉾行事を支えていたのです。

祇園祭をどう継承していくか

 京都では、小学校へ通う学区単位で話をする場合があるのですが、この会場の周辺地域は「明倫学区」と呼ばれています。かつてこの地域の中心であった、ここ明倫小学校を「京都芸術センター」というかたちで、芸術を志す若い人たちの活動拠点にしていこうとする京都市の思いを、私は非常にうれしく感じています。

 この「明倫学区」には、私のように一戸建てに住んでいる人たちの割合が全体の2割を切っています。8割強の人は、呉服業がうまくいかなくなったため、再開発により10階建てに近い高級マンションをつくったところに、京都というイメージ、都心部の利便性、祇園祭に代表されるような文化性の高さ、などを求めて全国から集まってきた方々です。

 私は、何とかその新しく流入してきた方々に、1200年間この地域で醸成されていた心根や、気風、習慣などをわかっていただきたいと思っています。この地域や、祇園祭についても、新しく京都に来ていただいた方々に託していかなければ将来がないのです。

 京都はこの1200年の間、安穏に暮らしてきたわけではなく、天変地変が絶えずあり、また政治の変化、政権が頻繁に変わることによる変動など、さまざまなことに打ち勝ち、といっても個々が家族単位に頑張り、町内組織を守ってきたからなのですが、あの動く美術館といわれる、宝物をいっぱい持つ山鉾行事を絶えることなく続けてきました。これに関連して披露したいエピソードがあります。

 昭和17年から4年ほど、山鉾行事は諸般の事情により開催できなかった時代があります。しかし、昭和22年に、長刀鉾1基が四条寺町まで往復巡行することで、山鉾行事が再開しました。私の所属している北観音山も、昭和23年に戦後復興の第二陣として、船鉾とともに立ち上がり、四条寺町までの往復巡行を行いました。

 そのころ、ここで暮らしていた資産を持っていた旦那衆は、敗戦の痛手と、その後に来る財閥解体に伴う「財産税」の影響とが大きな負担としてかかっていました。そのため、私の町内にある三井家は、財産税のかたのために、物納してしまうようなことがありました。私たちのような家でも、2軒あった家を、一軒を税金のかたにし、一軒に絞り込みました。同様のことを、多くの旦那衆がしていたと聞いています。

 さらには、敗戦のショックから、家長たちがどんどん亡くなっていきました。亡くなったらその途端、相続税が課せられます。財産税と相続税とに相当やられていたのです。このように、自らの誇りすらボロボロにされかねない苦境下での昭和23年の祇園祭の再開であったのです。四条通には、日本の警官は誰もいません。アメリカのミリタリーポリスに守られての巡行で、道の南側にはジープが並んでいるような状況でした。そのとき私は、財産税や相続税で大変な思いをしていた父親の世代が、立派に裃をつけ、真正面を見据え、すっと前に歩いて行く姿を見ました。このとき初めて、おやじは非常に立派であると思いました。まさにこの地域の誇りの片鱗を、私はそのときに体験したのです。

 その時の祇園祭は、今日のような立派な祭りにはほど遠く、昭和27年になってようやく、戦前どおりの祭りができるようになりました。そのころの祇園祭は、「先祭」、つまり神幸祭に伴う17日の山鉾の巡行と、「後祭」、つまり還幸祭に伴う24日の山鉾の巡行との2グループに分かれていました。八坂神社から御旅所まで神様がおでましになるのを神幸祭と言い、御旅所から神饌苑へ行って、そこでお祭りごとをして、社にお帰りになるのを還幸祭と言いました。そして還幸祭をにぎわしていたのが、「後祭」の山鉾グループの巡行でした。

 巡行コースも、今のように御池通を通るのではなくて、四条通と三条通を中心に、南の方へ回り新町通へ帰ってくる巡行コースだったのですが、昭和41年に、京都市の都市政策の絡みもあり、「後祭」と「先祭」の山鉾グループは一つになり四条河原町を行って、御池通から新町通という現在の巡行路に変えてしまったのです。

 まさに、これは神事と観光行事を分けてしまうような結果であったかもしれません。それでも、地域の人たちは、やはりどこかで八坂神社の神の存在というものを心の中に持ち、真夏の梅雨明けの太陽に照らされながら祭りをするのですが、昨年の状況などを見ると、どの町もその辺を歩くだけでも大変なほどの人のにぎわいです。これは結構なことだと言えばそうなのですが、祭りの本当の姿を見失ってしまうほどのにぎわいになってしまったとも言えます。そこで、巡行路は、四条通、河原町通、御池通を使わざるを得ないのですが、何とか元の姿に戻すことはできないか、せめて17日と24日の巡行に戻すことができないか、ということについて議論を始めています。

 いま、8割以上にふくれあがっている全国から来ていただいている住民の方々に、そういう姿を是非知っていただき、何百年後まで、世界文化遺産に登録された無形文化遺産を継承してもらいたいと思っています。

町家が醸し出す「こうと」な調和

 今日の祇園祭の繁栄は、国の援助、自治体の援助があったからですが、それだけではなく、一人一人、また一家庭一家庭の心の詰まった思いの結果が動く美術館といわれる、美しい山鉾を維持してきたのだと私は考えています。私の住んでいる住居も、同じような気持ちが満ちている空間であるということを知っていただきたいと思っています。

 私の家は姿を現して103年になりますが、一つの家を維持していくことは大変なことなのです。私の住まいも、かつて洋館風に改造された時期もありました。現在の姿に戻したのは今から30年ほど前のことです。また、その住空間を確保するには、ずいぶん我慢が要ります。それは修繕費だとか、お金で買えるようなことではなく、ずいぶん我慢が要るものなのです。というのも、京町家というのは、自然と同調して住まう家ですから、夏は暑く冬は寒い。そういうことは当たり前として、100年の間には、商売がうまくいっているときもあれば、そうでないときもある。そのような、さまざまな状況に耐えながら、何とかその形を維持してきているのです。

 私は自分の家を見ながら、私個人の家というよりも、1200年間の人々の生活があってこその自分の家だと感じています。個の持ち物を超えた存在としてあるから、「町家」という言葉で言われている建物の姿につながっていくのだと思います。確かに、迎賓館も立派ですが、小さな「町家」のほうが、よほど美しいと思うことがあります。

 冒頭の西野部長のお話のなかで、ワールドモニュメント財団から総額25万ドルの財政支援を受け京町家を改修したという話が出ていましたが、それほどのお金を掛けて、わずか間口5メートルの小さな町家が1軒元通りに修復されました。その家の前を通ると、まさに「山椒は小粒でぴりりと辛い」という印象を受けます。

 それがきっかけとなり、姉小路通の新町通を西に行ったところにも、間口5メートルの京町家の最小単位であるものが、「作事組」という伝統工法で家を修復する人たちによって、立派によみがえっています。

 そのような点が今少しずつ増えつつあります。それと同時に毎年2%ずつ「町家」は減っています。増えていく点がとても減少に追い付かない状況です。しかし、追い付かないのですが、その流れを食い止めようという確かな動きがあります。皆さんも興味があれば、そういう目でこれらを見てください。

 しかし、残念なことにパリ、ボストン、プラハといった京都市の姉妹都市と比べると、この京都の下町は、とてもみにくい状況となっています。世界で古都といわれる町の中でも一番みにくいのではないでしょうか。それはなぜでしょうか。

 私たちの母親の世代、今ちょうど100歳ぐらいの人ですが、その人たちの気持ち、心を統制する言葉に「こうと」という言葉がありました。例えば、"私にはこの着物は「こうと」過ぎるからもう少し派手なものにしたい。"といった風に、自分の頭のうえから足の先まで美しくバランスよく包むために、「こうと」という言葉を一つのキーワードに使っていたのです。この「こうと」というのは、「公道」と書いて「こうと」と読ませます。

 「紅殻格子に虫籠窓」といわれるような、あの白木に色付けをするというのも、「こうと」に振る舞うことを示しています。仮に、古い町並みに新しい建物が1軒できて、それが白木のまま出てきたら、その部分が突出することになります。それが全体のバランスを壊してしまうことになります。そういうところに色付けをすることによって、全体をなじますということ。それが「こうと」に振る舞うということなのです。

 しかも、「こうと」は、お仕着せのように一緒に染めるということではありません。ベンガラの色というのは、それぞれ家々によって多少好みが違っています。多少赤みを残したベンガラ格子や、墨色で色を殺したベンガラ格子などがあるのです。ベンガラを塗るという一つの行為は同じなのですが、そこに1軒1軒の好みがあり、実は結構華やかなものなのです。しかも、どこかの家が突出するのではなくて、何となく全体が調和を得ているのです。



季節に寄り添う京町家の暮らし

 私の町家での四季の暮らしについてお話します。

まず正月です。新しい神様を迎えるというのは、大変大事なことで、祭壇をつくるのは主の仕事です。新しい祭壇を、暦のなかで、今年1年間恵みを与えてくれる、めでたい方角に向け、さらに1年間の祈りを元旦1回の祈りで済ますために、毎月供える12個のお餅を中央にし、光も12灯上げるための年徳棚というものをつくります。年徳棚を飾り、商人らしいずぼらなところがあるのですが、1年間の祈りを元旦1回の祈りで済ませるのです。私は、「今日空晴レヌ」という柳宗悦先生の書に、結びのある柳を添えて床の間に飾ります。この飾り方は私独自のものですが、清らかな新春を迎えるという意味を込めています。正月だけは本当に特別ですが、昔通に祝うということが一番大事なことだと思います。正月の祝い料理も簡素にし、毎年同じように祝い事を繰り返すことにより、先祖とのつながりを実感し神様に感謝できるのだと思います。

 次に節分です。美術学校を出た私らしい祝い方になりますが、私は五色の毛せんで座敷を飾ります。五行思想で森羅万象の恵みである、木・火・土・金・水を色に訳すると五色になるので、それにあやかっています。節分が過ぎると立春ですが、京都の人は、立春というのは名ばかりで、立春の頃が一番寒いのです。そのときの合言葉として、「お水取りが済むまでは、まだまだ寒うおすな」と道行く人とあいさつを交わします。

 やがてひな祭になりますが、京都の3月3日はまだ寒く、とてもおひなさまを飾って祝うような気分になれません。ということで、簡素に旧暦の3月3日にお祝いをします。私の家では、今は辞めていますが、4月初めになると、素晴らしいツバキを頂戴して百椿展を開催していました。ツバキというのは、木なりで見るより、一輪一輪をめでた方が美しいのです。そういうことにも気を配りながら春の雰囲気を楽しみます。

 最近の本で、町家の「中庭」を、「坪庭」と紹介しているものがあります。「坪庭」というのは、実は町家の庭を生活体験の中で持っていない人が使う言葉であります。実際に京都で生活している人は、この庭を「中庭」と言います。「中庭」は、間接光を店と玄関に送る装置であると同時に、けだるい夏に奥庭と連動させ、通風を確保するものです。立派な機能を持った「中庭」は、見て楽しむだけの「坪庭」とは全く違います。私の家の「中庭」にあるつくばいは、いかにも商人らしく、小判型の造りになっています。小判型のつくばいで手を広げるという先人のユーモア心が垣間見えます。

 5月は端午の節句です。私は5人兄弟の末っ子で次男坊でしたから、主なる飾りは全部兄のものでした。書院のところにある小さな張子の虎だけが私の道具でした。次男坊というのは、そんなものなのです。5月の終わりから6月の初めまでは、冬座敷の名残を楽しんでいまが、6月の梅雨半ばごろには、家の中を夏座敷に変化させます。

 夏は、開け放って開放的に住まいます。夏座敷というのは、すがすがしく美しいものです。長い間、京都の人たちが選び抜いた素材でできている夏の建具や、夏だけに敷く籐の網代という敷物。朱印船貿易をしていた桃山時代から江戸初期のころには既に、ボルネオ島のカリマンタンから運んできた素材を使用した南洋好みの素材をも家の中に持ち込んでいました。それほどに京都の冬と夏というのは、様相が違うのです。

 7月10日頃、私の町内に観音山の山鉾が立ち上がります。骨組みは無駄がなく非常に立派で美しいです。よく「釘一本も使わない」ということを言われますが、解体しては蔵にしまい、また蔵から出しては組み立てるのですから、釘など使うわけがないのです。組み立てた後、飾り付けをして完成させます。屋根の軒下にあるのは、雲竜という、祇園祭創設の一番の原因である水への畏怖を象徴するデザインのものです。869(貞観11)年のころ、鴨川の水が毎年のように氾濫し、あちらこちらに水たまりができました。灼熱の太陽が水たまりに照りつけると、アメーバがいっぱい増殖し、その水を飲んだ、免疫力の弱い生まれたての子どもや幼子、老人たちが、ばたばたと死んでいくという惨状が毎年繰り返されていたのです。その原因である水を象徴しているのが龍のデザインなのです。欄縁は唐獅子牡丹というめでたい模様です。真っ赤な色のじゅうたんは、1750年ぐらいに購入した、インドで製造されたじゅうたんです。そういったものを、この町内で購入し、250年間ずっと大切に飾り続けているのです。町家の軒にはちょうちんをつり、祭りの雰囲気を盛り上げます。昼間に祇園祭を見てもらうと、人に押されることもなく、ゆっくりと観賞できます。私の家の店の間も、格子を外して開放し、道行く人と家の中が一体になって祭りが楽しめるようになっています。これは京都独特の演出方法で、祇園祭のお客さまをお迎えする大事なしつらえの一つです。

 8月、当方の二つの庭は、奥の庭に光が差し込むようになっています。逆に中庭の方には光が当たりません。光の当たる庭と、当たらない庭をつくることにより気温の差、湿度の差をつくり、外界に風がないときにも、座敷周りにゆらぎの風がつくれるようになっております。冷感が得られる通風の良さが京都の町家の一番の自慢点であります。

 秋になると、秋草で家を飾ったりもします。光の当たる奥庭のつくばいの水面には、月が写るという、にくい演出にもなっています。冬近しということで、座敷には足元を温める段通を敷き、その上に赤い朱塗りのテーブルを置いたりしますが、それは、そろそろ寒くなってきて、暖かみが欲しいなということを表現しています。

 町家の骨組みというのは、非常に骨っぽく質実で、必要な材料だけで組み上げている軽みの小屋組になっています。子どものころは、はりの上に乗って、すす落としができるようになると、自分はこの家で必要な男になったと感じたものです。

 よく、京都の家は「陰影礼賛」と言われています。陰りの中のほの明るさのようなものを好むのだと、谷崎潤一郎は言いましたが、確かに、三方を塀で囲まれている京都の座敷周りというのは、光が入りにくい構造になっています。しかし、回転戸袋といって、雨戸を入れる戸袋が、床の間の掛け物を少しでも明るく見たいときには、90度壁際に押し込むことができるようになっていて、庭からの間接光が書院を通して床の間をやや明るくするといった装置が、江戸時代の半ばに既に出来上がっていました。実は、京都の人たちは光を求める気持ちが非常に強かったということを表しています。私の家は、煮炊きなどの作業をする通り庭が家の中で一番明るい場所で、二番目に明るい2階は子どもたちが常々使い、一番条件の悪い、暗い所で大人たちが疲れた体を休めるといった風に、光を使い分け上手に生活するところが町家の非常に大事なところだと思います。決して暗がりだけを好んだのではないことを強調しなければなりません。

 12月の上旬、奥の庭には、白の侘助(わびすけ)というツバキが咲きます。毎年11月の月半ばに「初花」をつけ、「終い花」を5月の連休まで楽しめます。約6箇月間も白い小さな花をたくさん咲かせ、楽しませてくれます。本格的な冬の季節になると、淡雪が積もることがあります。子どものころ、中庭のシュロチクがざわざわと雪起こしの風に揺れているときは、次の日になったら雪が降ってくれるだろうということが楽しみで、サンクロースよりも、ワクワクしながら淡雪の降るのを待っていたものです。

「堪忍」、「こうと」の復活を

 私の家の店の間正面の真ん中には「堪忍」という墨額が掛かっております。「堪忍」というのは単に堪え忍べ、というような意味ではなく、お互いに堪忍し合って商いをしていきましょう、という意味です。江戸時代に、町民の生活規範の一つとして、石田梅岩が提唱したものです。その商人たちの頑張りのおかげで、祇園祭、町家を今まで守り続けてこられたのです。

 かつて、今日の会場も、明倫小学校という小学校でした。これは石門心学の道場であった明倫舎というものが基礎になって、それが三番組小学校という名前になり、そして明倫小学校という名前になり私たちを受け入れてくれたのです。その基本になるのが「堪忍」という言葉であり、決して一人勝ちすればいいということではありませんでした。このような都市市民としての教養があったからこそ京都は、天皇が東京へ行かれた後も、商人たちが頑張り、この校舎を建てるようなことができたのです。それから先は、戦争の闇に突入していき、特に戦後以降、こういう「心学」の考え方がなくなってしまいました。そういう考え方をかなぐり捨て、ブローカー的な商売に入り、私利私欲を満たす庶民が増えたのです。その結果として、いまのような下町のみにくさが生まれたように私は思うのです。

 われわれの母たちの世代は、自分たちを美しく装うために「公道(こうと)」という言葉を非常に大事にしていました。公の道ということを、それぞれが感じ、また大切にしていたのです。それは、人から強要されたものではなく、あくまで自らを律する規範として、「公道(こうと)」という言葉を大事にしていたのです。将来の京都を美しく装っていくためには、「こうと」という言葉の視点が非常に大事なのだろうと感じています。


トピックス