趣旨説明
「国家戦略としての京都創生」の取組について

京都市総合企画局政策企画室 京都創生推進部長
大田 泰介


 本日は第15回目の「京都創生連続セミナー」を開催いたしましたところ、誠に多くの皆さまに足をお運びいただきましてありがとうございます。

 本日は、京都工芸繊維大学名誉教授の中村昌生先生に、『「近代和風建築」と伝統の継承 〜未来につなごう日本の心〜』と題してお話をいただきますが、その前に私ども京都市が取り組んでおります「国家戦略としての京都創生」につきまして説明をさせていただきます。

 申すまでもなく、京都が持つ四季折々の美しい自然景観や、そこに溶け合う寺院、神社、そして京町家などの町並み、さらに、このような風土に受け継がれ、磨き上げられてきた伝統文化などは、国内外の多くの人々から愛され、高い評価を受けています。「国家戦略としての京都創生」は、こうした京都の自然や都市景観、伝統文化などを、国を挙げて守り、育て、活用しようとする取組です。特に国を挙げてこの京都を守っていただくことを、京都市としては強く要望しているところです。

 また、当然、国に求めるだけではなくて、まずは京都の私たちが汗をかくということで、例えば市の施策といたしましても、無電柱化の取組ですとか、あるいは文化財の保護ですとか、新景観政策ですとか、景観、文化、そして観光といった面におきまして、さまざまな取組を進めているところです。

 そのように、京都のまちを守っていくにあたりまして、さまざまな困難に直面しています。例えば、京都の都市景観の中で、京都らしさを形作っています京町家につきましては、今年、全数調査の結果が出ました。その結果を見ますと、毎年2%ずつ京町家が失われており、厳しい状況に置かれていることが分かっています。

 やはり、京町家に住み続ける方におかれましては、経済的な負担などがあり、維持するのが難しいという事情があります。京都市としても、補修に対する助成制度を設けるといった支援策を講じているところであります。

 ただ、京町家を守るにあたって、京都市や市民の皆さまの力だけではどうしようもない障害もありまして、その一番大きなものが法律上の規制です。「建築基準法」の規制、京町家ができたときにはなかった規制が、今現在はあることから、京町家を傷んできたので建て替えようとか、大規模な修繕をしようというときに、また同じような京町家にすることができないことがあります。

 ですので、京都市としても、国に対しまして、「建築基準法」は安全性そのほかで必要ではありますけれども、全国で一律にそれを適用するのではなく、例えば京町家については、京町家らしさを守るような適用の仕方ができないか、そういったことを働きかけているところです。

 また、文化に関していいますと、京都市は、国宝の19%、重要文化財の15%が集積するまちであります。こういった文化財は、昔のことを知るためには本当に重要なもので、しっかりと保存し、また未来に伝えていく必要があります。しかし、それを京都市、あるいは市民の皆さまのお力だけで行っていくには、どうしても限界があります。こういったことから、国に対しても支援を求めているところです。

 京都市としても、当然努力をしております。例えば、二条城でこれから大規模な改修を行うにあたりまして、今年、「二条城一口城主募金」というものを始めました。多くの方々からご支援をいただいて、何とか後世に伝えていこうと取り組んでいます。

 このようなことを、京都におられる皆さまに知っていただくことは当然でございますけれども、さらに広く、京都以外の方々にも知っていただく、そして、京都のまちの魅力に触れていただき、その重要性を考えていただくことも重要だと考えておりまして、来年の2月に、初めて、東京で京都創生の意義を訴えるイベントを計画しています。しっかりと、東京の皆さまに京都のまちの重要性をもっと理解していただけるようにアピールして参りたいと考えています。

 本日、ここにお集まりの皆さまにおかれましても、本日のセミナーを契機に京都の新たな魅力を発見していただき、それをまた身近な人々にお伝えいただきまして、「国家戦略としての京都創生」の取組にご協力いただければ幸いです。





講 演
『「近代和風建築」と伝統の継承 〜未来につなごう日本の心〜』

京都工芸繊維大学名誉教授
中村 昌生 氏


世界に誇る近代和風

 私は日本建築の研究者です。茶室の研究を長くしてまいりまして、茶室関連の本をいろいろ書いてきました。私が茶室を勉強し始めた理由は、実は近代の和風建築の見事さに惹かれていたからです。

 文化財として指定されてきたのは江戸時代までの建築ですが、明治以降、近代の邸宅・山荘といった建築も素晴らしい。これらを研究するためには、既往の日本建築の研究の仕方では駄目なのです。近代の邸宅や山荘をつくった人たちは、富だけでなく数寄者としての教養を深く蔵し実践していましたから、まず茶の湯の研究、茶室を知らないことには近代の和風は研究できないと考えまして、茶室の勉強を始めたのです。

 洋風建築は盛んに調査研究され、研究者もたくさん現れました。近代和風はまったく看過されていましたが、この和風こそ近世と近代、現代をつなぐ誇るべき日本建築の作品であり、未来につながなければいけないという確信が、私にはありました。

 明治になりまして、建築の近代化は洋風建築、西洋建築の導入が主流になり、建築技術者といえる人は、洋風建築を学校で学んだ技師であり、技術者でした。江戸時代以前からの日本建築にずっと携わってきた人たちは職人として扱われ、いわば日陰を歩いてきたわけです。

 なるほど、日本の建築界の近代化は見事に成功しました。今日このような洋風建築が多数建設され、現代の建築の巨匠たちは世界に羽ばたいています。日本の各都市は現代建築の建設を競っています。しかし考えてみてください。その歴史は1世紀半しかありません。そういう現代建築だけが日本建築であるならば大変なことです。日本には、ずっと昔から続く建築の歴史があるのに、明治で断絶したことになってしまいます。

 主流はそうであっても、日陰で、傍流で着実に伝統を受け継ぎながら、しかも近代化も成し遂げながら続いてきた木造技術が、すぐれた近代和風を生んだのです。これは、匠たちによって推進されてきたと言ってもいいでしょう。そういう匠たちの技術を大いに活用し、彼らをむち打って近代和風の花を咲かせたのは、明治以降に登場した政財界、権力・富・教養を備えた実業家や文化人たちです。そういう人たちが営んだ邸宅、山荘は、この京都に多数残っています。

数寄者が守る京の伝統

 京都には、千年を超える首都であった時代に蓄積された歴史の伝統が今なお息づいています。だからこそ、日本の文化力を京都から発信しなければならないのです。日本の文化力は京都にある。これは紛れもない事実なのです。

 例えば住宅にしても、京都の町家が都市住宅の手本です。各地にも木造建築が営まれましたが、京都での町家は、首都であった文化的伝統と、近代化された現代の息吹が一緒になって生み出された、近代和風建築なのです。天明8年と幕末の火は、誠に残念な大火でしたが、その後建った町家が現在までずっと続いている。多くが戦災にも遭わずに残ったということですから、この上もない貴重な存在だと私は思うのです。

 しかし、昔のままであっていい建物ばかりではありません。新旧の建築が混在して存在する京都は、古い伝統がそれなりに進歩を遂げつつある姿でありますから、そういう中で、近代和風がどういうものかの真価を、皆さんにあらためて見直していただきたいと思うのです。

 南禅寺界隈の岡崎という場所は、背後には東山が望め、前には白川が流れ、そのうえ琵琶湖疏水があります。このように緑と水に恵まれた一帯は、借景によく、絶好の山荘適地として、実力者の別荘が数多くつくられました。その最初は、山縣有朋がつくった無鄰菴であるといわれています。

 山縣有朋は、庭づくりの名人であり、庭をつくることに情熱的でした。これまでの日本庭園ではまず池を掘りますが、彼はそれをせず、流れを主にした庭を構想して、小川治兵衛につくらせます。その後、小川治兵衛が庭の名手として、大活躍をするわけです。

 この有朋が別荘をつくる前後に、海軍の軍人であり、後に建設会社を興した伊集院兼常という薩摩の人が、南禅寺の金地院裏に別荘をつくりました。この人は、山縣有朋も一目置くほどの作庭の名手であったといわれています。この人もまた、流れを主にした庭をつくる。そうして、実に瀟洒(しょうしゃ)な、日本的な草庵といった方がいいような住まいをつくりました。

 そういうことが草分けになって、やがてこのあたりに山荘をつくる人が増えてくる。伊集院のあと、金地院裏の広い敷地には、伊集院のつくった庵をそのまま生かして、新たに庭を広げて、市田弥一郎が山荘をつくりました。その山荘が對龍山荘です。

 この地帯に最後に山荘をつくったのが野村得庵で、いまも一角から比叡山も望むことのできる碧雲荘と称する7千坪ほどの敷地に茶や能を楽しむ山荘をつくる。これが山荘群の営みの最後であったといってもいいでしょう。碧雲荘は、昭和3年の御大典のときに、東久邇宮の宿舎になったところです。

 このような山荘をつくった数寄者たちは、自分と心のかよう棟梁を探して建物をつくりましたので、ほとんど設計士や建築家が介在していません。クライアントと建てる人が一体になって、建物と庭が融合した一つの理想郷をつくり上げようとしたのです。それは山荘の主人にとって人生をかけた創造の世界でした。

町家大工にみる匠の技

 当時そこへ参加した大工さん、棟梁は、格別な人ではありません。大工の技術は、大きく分けると、社寺などをつくる堂宮大工さんと、住宅をつくる町家大工さんの二つの分野がありますが、こういう山荘の建築に参加する人は、みな町家大工さんです。町家の屋敷を普請する技術の持ち主たちが選ばれて、山荘の建築にも参加しました。

 近代は、例えば本願寺の御影堂のように、世界最大の規模を持つ木造建築がつくられた時代でもありますが、そういう大建築をつくる堂宮大工だけでなく、町家大工の仕事の中にも素晴らしい技術が成熟した時代です。

 日本の大工技術は、世界に誇るべき無形文化遺産です。日本の大工さんほど木を知り尽くした人はいません。その木も、森林にあった樹木の時から視野に入れて、材木となった木もなお生きている木、呼吸している木として加工する。梅雨時になると木造の建具がきしんだりするのは、木が膨張するからで、乾燥すればまた戻ります。それを視野に入れてちゃんと加工するのが大工の技術なのです。

 なぜ、世界に比類のない日本の大工技術ができたのか。これは、日本が古来からずっと木造建築に終始してきたからです。その長い経験によって、地震にも倒れない堅固な木組みや、木のいいところ、美しいところ、あるいは強さを巧みに操る技術をつくり上げたのです。

 碧雲荘をつくった野村得庵をはじめ数寄者たちは、普請道楽とも呼ばれています。普請道楽というと、金持ちで普請ばかり楽しんでいる人のことを言ったのでしょうけれども、この人たちは実に建築に造詣が深い。若い大工さんや技師では、とても相手はできないほど、建築・材料のことをよく知っていました。彼らは、それを単なる趣味というよりも、人生の仕事の一部だと考えていたからです。

 例えば、野村證券を創設した野村得庵は、茶器、茶道具を収集することも、実業と表裏一体で、庭や建物をつくるのも真剣勝負だと言っているのです。決して余技とか、ぜいたくでやっているのではありません。近代和風建築は、そういう人々が活躍した時代の所産なのです。南禅寺の山荘風景にはそういう人たちの心意気がみなぎっています。

 そういうよき時代の建築技術によって、日本建築の歴史は、明治以後も、主流ではないけれども存続してきた。ところが、戦後、普請道楽の時代ではなくなり、バラックの時代になりました。早く、安く建てることが市場の目標でした。そういう時代に、昔の洗練された技術などは必要ない。さらに、簡易な構法や便利な電動工具が入ってくることになって、すっかり大工の技術は混乱を来したわけであります。

 そのうえ当時の住宅行政では、簡易住宅をつくることが中心になり、ツーバイフォーだとか、プレカットというものが普及し、伝統的な工法は無視されました。平成17年に改正された「建築基準法」では、もう和風建築のデザインはできなくなりました。今や京都の町家のような呼吸する快適な和風住宅はできないのです。

 京都にいると感じませんが、地方へ行くと、どこに日本の家があるのかと思います。農村へ行っても農村らしい家がないのです。日本の国土の景観は急速に変わりつつあります。様相が変わってきているのは、憂うべきことだと、つくづく思うのでございます。外国の観光客も失望することでしょう。

庭屋一如を未来へつなぐ

 それだけに、この京都の町並みは守らなければなりません。その守り方は、昔のまま、そのまま凍結することではありません。最近は、海外におられる方でも、京都の古い町家を買って、古い町家をそのまま温存しながら、そこで生活したいという人も増えていると聞きます。町家にも未来のある証(あかし)だと思います。まだその家の寿命があるうち、修復再生が利くうちは、古い町家を維持していただくことは望ましいことであります。

 しかし、われわれは生きていかなければなりませんから、建て替えることも必要な場合があるでしょう。町家の建て替えでも、虫籠窓の町家の景観そのまま再建することは不可能です。どういう町家に建て替えるかが大事なのです。新しい町家の姿は、やはり京都の姿でないといけない。京都人の暮らしの伝統、京都人の思想、それを表すようなものでないといけないと思うのです。

 そういうことで、私は、なんとしても近代和風の世界、そこで成熟し充実した木造の建築技術・伝統構法を未来へつながねばなりません。もし断絶したら、それは決して建築、住宅の問題だけでなく、日本の伝統文化が廃れていくと思うのです。

 縄文時代の掘立柱から始まり長く続いてきた日本の木造住宅は、基壇を築いて大地を征服する姿勢でつくり始めた西洋建築とは異なり、大地に身をゆだね、自然とともに生きる姿勢でつくり続けてきた住宅なのです。

 庭を圧倒するような建物をつくったのでは、庭が殺されてしまう。庭と建物が共存できる建築、これが近代和風を貫く哲学なのです。その哲学を私は「庭屋一如(ていおくいちにょ)」、庭と建物が融合する空間。南禅寺界隈の山荘群は、まさに「庭屋一如」の権化であります。

 当時の大工技術の粋を見せた近代和風の建築は、この「庭屋一如」という日本の歴史を貫く一つの伝統のなかで開花したのです。

 こうした家づくりを捨て、木質ではあっても、呼吸しない家に住むようになるのは不幸なことです。肉体や精神も次第に日本人離れしていくのではないでしょうか。そういう実感を、私はつくづく感じるのです。

 伝統的な技術を先の未来に伝えないことには、日本の文化は滅びると思っておりましたら、東京でそういう提言を叫ぶ情熱の人が現れまして、国会に請願を始めています。それで、私もその傘下に入り、「伝統を未来へつなげる会」という団体で活動を始めました。やがてこれは法人化して、私は余生をこの運動に燃焼し尽くすつもりでおります。ぜひ、「伝統を未来につなげる」運動にご支援いただきますよう、最後にお願いをして今日の話を閉じたいと思います。


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