講演:「ブラウン管の裏から見た京都」
山 本

 余談ですが、あの大河ドラマっていうのは昭和38年に始まったんです。ですから40年やってるんです。これには視聴率の波があって、「困った時の」っていうのがありました。僕も大河ドラマ3本やったんですが、大河ドラマ40年で本数にすると45作ぐらいやってるはずなんですが、視聴率をかせぐ絶対のものっていうのがあったんです。それは何かって言うと一つは源義経なんですよ。やっぱり判官びいき、日本人は好きなんです。だから義経は今までもう3作も4作もやっています。それこそ有名な菊五郎と藤純子のものから始まって。それから秀吉、信長、家康のあの時代。それからもう一つは困った時の忠臣蔵。この3つをやれば何とか視聴率が取れた。ところが今回「これはNHKの大河ドラマどうなるんだ」と思ったのは、去年の「新撰組」とかその前の「武蔵」とか、特に幕末ものって絶対当んない。僕も幕末もの関わってましたけどダメでね。『獅子の時代』なんて幕末から明治の話でしたけど、ややこしいからだめなんです。で、だいたいそういうのをやってコケて、2、3年視聴率が悪いと、何とか戻さないと受信料を頂けないものだから切り札を出してくる。戦国ものか義経か忠臣蔵。ところが、その最後の切り札の義経が今年あまり上手くいかなかったから、これはNHKも考え直さないかんなと、後輩にこれを言わないかんなと思ってるぐらいです。今までの大河ドラマで一番視聴率高かったのは何かって言うと、伊達政宗。あの今大スターになってる渡辺謙。伊達政宗がトップで、その次が武田信玄。で、これはね何故トップになったか?武田信玄とかね伊達政宗っていうのはいわば、信長とか秀吉とかその辺に比べて二線級ですよ、毛利元就とか。だいたい一線級をやり尽くしたときにやった。でも当った。これはね、その前3年間何やったかっていうと、これ僕もやったんですが、「獅子の時代」とか、それから現代物の「山河燃ゆ」とか、要するに明治以降へ大河ドラマの幅を広げるためにやってみろって。で、3年間ぐらいやった。で散々だったんですよ、やっぱり。僕らなんか廊下の片隅歩いてたんです。やっぱり大河ドラマ当ったやつは真ん中歩く。これは本当ですよ。NHKでもそうですからね。民放の放送局行くともう大入り袋がぶら下がっているってよく言いますけども。NHKはそんなことしませんよ。しないけどもやっぱり気になります。そういうのを3年ぐらいやって伊達政宗やったら平均視聴率38%位行った、確か。「梵天丸もかくありたり」っていう有名な台詞が、年の瀬の今年の当った言葉になったぐらいです。

 ちょっとずれましたけど著作権は義経でいうと原作が宮尾登美子です。それから脚本が金子成人。それから音楽は岩代太郎。これだけでもうすごいです。それから主演が誰それとか、たくさんの俳優さんが出てきます。そういう人達は皆権利を持っているんです。ですから大河ドラマ一本、例えばライブドアへ渡すとします。渡して、再放送しようとしても使えないんです。使うためにはものすごい種類の著作権をクリアしなければ、つまりお金を払って、了解もらわなきゃいけないということ。ですからいまだにテレビソフトっていうのは不自由な存在で、宝の持ち腐れみたいになっている。まだこの部分が解決できていない。唯一団体で全部クリアできるのは音楽。音楽著作権者には組合みたいなものがあってルールがあってできますが、他は全部一人ずつ、宮尾先生のところへ再放送だといって「宮尾登美子先生、よろしくお願いします」って挨拶して、原作者には確か10割払う。再放送しても一回目と同じお金を払う。脚本は5割とか。それから出演者は3割とか。それと、中で例えば写真を使ったりする。そうするとその写真の著作権も生じてくるわけですからそれもクリアしなきゃいけない。こういう難物が著作権クリアーの問題です。これをどうやっていくかっていうのは今後とも非常に重い課題で、担当は文化庁でやらなきゃいけない。と、何かちょっと雑談ばっかりでやってるようで申し訳ないですが、まあそういうふうなテレビ界の大きな動きがありました。

 今日のテーマに即して言うと、私は御紹介していただいたような経歴を持ってきたんですが、京都には大学時代いたんですけれど大学時代はほとんどもう京都のことは分かんなかったですし、実際4年間で祇園祭を見たことがなかったです。ま、そんなことで卒業していって、その後東京のほうでドラマとか特に海外取材系のドラマとかドキュメンタリーを随分やってましたから、ほとんど京都のことは忘れてまして、6年前に京都に来て改めて京都とお付き合いするということになったんです。これは当たり前の話なんですけれど、京都って東京方面に居たりしますと、京都市のことなんです。これはもう間違いない現実です。しかも、ここの京都盆地、美しい三方を山に囲まれたこの中の話で、京都にまず海がある、北のほうにあるなんてことは誰も知らないですね。ですからあの天橋立、あれが京都府だって知ってる人は、おそらく日本中あんまりいない。本当にそうですよ。京都イコール京都市です。ですからマスコミも当然のことながら京都っていうともう京都市域、それこそ祇園祭を中心にした。それはもうほっといてもどんどん報道してくれる。ところが京都府下のことになると全く情報として知られていない。僕も京都に来た時にね、局長室に当然京都府の地図が貼ってあったんですが、見たときに「あ、京都ってこうなんだ」と思ったのは、南北にものすごく長いってことが分かった。長くて京都市は南のほうにあるんです。北のほうに向かって団子のように盆地がずうっとあって、それで丹後半島の海に出てる。で海の先が朝鮮半島ですが、まあそういう地形です。色々話を聞いてみると、いろんな話があるんですね。丹後七姫だとかそれこそ間人(たいざ)の聖徳太子のお母さんの話だとか。全然知らなかったです。

 それでね、すごく印象的に覚えているのはラジオの番組をやったんです、生番組を。3時間ぐらいかな。京都北部を語り尽くすみたいな番組を。天橋立が見える旅館の一室をスタジオに仕立てて。ゲストがね、俳句のあの『ヘップバーン』を主宰している黛まどかさんだったんです。で、その時にへえっと思ったのが籠(この)神社ってあるでしょ、カゴ神社と書いて。天橋立の対岸に。籠神社の宮司さんの息子さんでしたけれども、海部さん、あまべと読むそうですが、禰宜さんがゲストでいらっしゃった。雑談してた時に出た話ですが、籠神社って皆さん御存知でしょうか、家系図が国宝になっているんですね、海部家の。何年と言いましたか、千何百年?の海部さんの家系図が国宝として指定されているんだそうです。それだけでちょっとびっくりだったんですが、僕がもっとびっくりしたのは、その禰宜さんがね、子供の頃からの思い出話としておっしゃるには、家族は絶対同じ列車なり飛行機に乗らない、船にも乗らなかったと。これは、さすがに僕も驚いて。つまり、よく言うアメリカの大統領と副大統領は絶対一緒に行動しませんよね、これは国の安全保障のためですよね。同じ行動して飛行機落ちたら大変だから。これは日本もそうかもしれませんが。しかし、ひとつの家族がね、そこまでやっぱり血筋といいますか、大事に家系を保ってるってのは、僕はやっぱりちょっとびっくり仰天して、やっぱり京都は奥が深いと改めて思いました。地域といいますかね、地方にもものすごい深いものがあるんだということを痛感したんです。そんな話、方々にあります。

 もう一つびっくりしたのは、京都北部の大江町。大江町って、鬼の交流博物館があるんですよね。大体、丹後半島は観光的にも朝のテレビ小説の『ええにょぼ』の舞台になった、舟屋のある伊根町とかね、そういうところが有名だと思うんですが、ところが、大江町に行って、鬼の交流博物館に、雪の中、行ったんですよ。僕は率直に、これにも驚きました。何を驚いたかっていうと、まずその情熱。館長さん、町おこしで鬼を使うんだって言った時には町じゅうの人から総反撃くらったんですって。そりゃそうですよね、鬼なんていうと印象悪いですよね。何でそんなネガティブなものを町おこしに使うんだって、総反撃くらった。でも、彼はですね、もう頑張りに頑張りぬいて、まあふるさと創生資金かなんか使って、鬼を町のシンボルっていうか、町おこしで「世界の鬼の交流博物館」っていうのを作っちゃった。博物館に行ったら、世界中の鬼がいます。行った方あるでしょう?これは日本の鬼だけじゃなくて世界中の鬼がいる。よくまあ、こんなに世界に鬼がいるもんだっていうぐらい、もう南方から北の、北欧までいろんな鬼がいるんだけど、その鬼を、町おこしで使って何十年やってきて、今、鬼の町になっている。大江山の酒呑童子から来てるんだけど、だけど、そういう、梶田さんがさっきおっしゃった「地域」ですよね。本当に地域にこだわってやってると。僕はこれはすごい文化だと思いました。見習うべきだなあと、ほんとに思いました。

 僕は京都に4年間居たんですが、『京都上がる下がる』とか、いろんな番組をやりました。それからお茶の番組。『趣味悠々』で定番はいっぱいあったんですが、とにかく「僕のこれは方針じゃ」ということで何をやったかというと、「京都府下をやれ」と。とにかく京都府地域でそれぞれがんばってる人たちの情報をできるだけ出しなさいというのが僕が4年間やってきて、結果的な意味づけはまた別にしても、やって良かったなあと思ってることの一つなんです。

 何でそんなふうに思ったのかというと、テレビっていうものは何て言うんですか、ものすごいプラスとマイナスがあって、僕は京都府下の雰囲気を色々見てきた時に、もう一つの側面に非常にがっかりしたことがありましてね。それは京都だけじゃない。今、日本の町、どんな町に行っても同じに見えますよね、皆さん。もう同じような家ですよね、ここ10年、15年で建ってる家。この法然院の山降りてすぐ何があるかっていうとコンビニ。食べるものから、丹後半島だって若者は地場の地物の魚なんか食べないで、コンビニで買ってきた刺身食べているんです。それから走ってる車も建物の形とか皆同じです。どの町へ行っても皆のっぺらぼうっていいますか、もう金太郎飴みたいで、がっかりします。

 僕は相当世界中歩きましたけれどもこんな国無いですよ。唯一京都、沖縄は未だ例外だと僕は思ってるんです。後は、どこ行っても似てます。若者も似てるし、だいたい方言をしゃべらない。みんな標準語といいますか共通語で話します。おじいちゃんおばあちゃん、昔20年前30年前,東北行ったら、僕なんか取材に行ってインタビューしても何言ってるか分からなかったです。もうそんなこともないです。みんな同じ。何でかな、というと色んな理由があるんですが、ひとつはやっぱり僕、テレビの責任だと思ってるんです。テレビはいっぱい良いこともしてきました。素晴らしい文化を作ってきた。素晴らしいドキュメンタリーがあったり、ドラマがあったりします。それと同時に文化の伝達者として、つまり情報の伝達の部分で、ちょっと巨人になりすぎています。

 日本人はテレビが好きなんです。平均3時間10何分か見てるんです。信じられないけど、統計取ると。ここ10年間見ても変わっていないです。つまりインターネットができて若者はパソコンでやってるじゃないか、といっても統計的には変わらない、それだけテレビを見てるんです。それでこれは世界標準に比べても日本人は好きですね。決して悪いと言ってるんじゃないですよ。テレビっていうのは非常に便利なものですから、寝転がってても全部教えてくれるわけです。実際、9・11のアメリカのテロがありました。あのニュース、あの事件も、これはアメリカの調査ですけれども、あの事件を何で情報を得たかっていうとやっぱりテレビなんですって。アメリカでは日本以上にニューメディアの発達国ですけれどもやっぱりテレビであの情報を得たそうです。ということで、やっぱりテレビっていうのは非常に強靭なメディアですね。ただ、やっぱりちょっとすごすぎて、行き過ぎてるって感じが僕にはありますね。つまりラジオの時代っていうのは、あの頃、大正14年から昭和のね、戦前・戦後にかけてぐらいの時代っていうのは、まだ交通も発達してませんし、ほんとにある種の文化の恩恵みたいなものもやっぱり東京とか大阪とか大都市で享受されて、田舎っていうのはものすごい田舎だったわけですよね。僕も昭和19年生まれですけれども、小学校の時代、一番の楽しみはラジオの連続ドラマ、笛吹童子だとかそういうものが最高でしたし、なんとなく東京とか都市の雰囲気っていうのはやっぱりラジオで聞いていました。つまりそういう意味で文化のかさ上げみたいなところで一定の役割を果たしてきた。ラジオの創設者の後藤新平っていう人が、ラジオの一番大きな機能の5つぐらい言ってますが、その中でやっぱり文化を日本各地に平等にお伝えできるという役割を過不足なく僕は果たしてきたと思うんです。昭和28年にテレビが生まれて急激にテレビの力ってのが大きくなってきて。たしか昭和30年代から40年代ぐらいにかけてあらゆる意味で、悪い言葉で言えば一億総白痴化みたいなことを言われた時代もあったわけですけれども、テレビがひとつのスタンダードになりすぎたんじゃないかっていう気がする。あらゆる側面でね。

<つづく>

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