京都創生推進フォーラム
シンポジウム「京都創生推進フォーラム」について

日 時 平成25年8月2日(金) 午後1時30分〜4時
会 場 宮川町歌舞練場


オープニング 芸舞妓による舞披露
宮川町歌舞会


あいさつ 立石 義雄(京都創生推進フォーラム代表、京都商工会議所会頭)
門川 大作 (京都市長) ※ビデオメッセージ

京都創生取組報告 大瀧 洋(京都創生推進部長)

パネルディスカッション 「京の美と技 −時を超え 世界から、そして世界へ−」

パネリスト 煖エ 拓児 氏
(京料理「木乃婦」若主人)
  鳥羽 美花 氏
(染色画家)
  吉田 孝次郎 氏
(公益財団法人祇園祭山鉾連合会理事長、京都生活工藝館無名舎主)
コーディネーター
山本 壯太 氏
(古典の日推進委員会ゼネラルプロデューサー)



主催者あいさつ


京都創生推進フォーラム代表 立石 義雄


立石義雄

 皆さんこんにちは。当フォーラムの代表を仰せつかっております立石でございます。
 私は常々、「高い文化と学術を持つ創造的都市は、その時代の産業に革新を起こす。」と申し上げています。
 そして、まさに京都は、時代の産業に革新を起こしており、日本のみならず、世界の人々にとって大変魅力ある、世界で最も輝いている都市であると考えています。
 私がそう考える理由は、京都には、日本の文化など、守るべきものは守りながら、常に新しい時代の生き方、暮らし方、まちのあり方など、新しいライフスタイルを創造する提案力があるからです。
 これは、世界を見ても大変まれな事であると思います。そして、その根幹は、京都の独創性と先進性にあると思っております。

 先日、大変嬉しいニュースがありました。アメリカの有名な旅行誌の2013年の人気都市ランキングのおもてなしの総合部門で、京都が5位に選ばれたことです。昨年は、日本の都市で初めてトップテン入りし9位でしたが、更に順位をあげました。
 これは、「風景」「文化」「芸術」「食事」「買物」「人」「価値」の6つの評価項目を読者が採点したもので、1位バンコク、2位イスタンブール、3位フィレンツェで、ローマが6位、パリは9位でした。

 これからの「京都創生」を考える上で、大きな環境の変化を踏まえておかねばならないと思います。
 グローバル化が更に進展する中で、今後20〜30年の社会や経済において、規模メリットの低下による、脱「量産」という大きな変化が起こると考えています。これまでの大量生産、大量消費による画一的な「モノの豊かさ」を追及してきた工業社会から、「心の豊かさ」「生きる喜び」などを追及する、多様な価値観を尊重する社会に変化していくということです。
 すなわち、今後の社会的な価値観の源泉は、「モノ」から「知恵」へと移り、京都が持つ知恵と多様性を、より一層生かすことができる時代になるのではないかと考えています。この「京都創生」を推進していく上でも、京都の持つ独創性、先進性を兼ね備えた提案力を発揮していくべき時代を迎えているということです。

 現在、私が会頭を務めております京都商工会議所の2代目の代表は、大河ドラマ『八重の桜』でもお馴染みの主人公・新島八重の兄、山本覚馬でした。明治維新という大きな変化の中で、国の行き先を照らす確かな知恵を持った人であったと思いますが、この立派な先輩に負けないように、現在を生きる私たちも、大きな変化に対応する新たな社会、文化、産業の創造に取り組み、「京都創生」に貢献していきたいと考えています。
 本日のシンポジウムでは、「京の美と技」をテーマに、パネルディスカッションを行います。本日ご参加いただきました皆さまが、京都の魅力を守り、育てていくために、一緒に考える機会になればと思っております。

 結びに当たり、本日快くパネリストをお請けいただきました皆さんに厚く御礼申し上げますとともに、本日のシンポジウムが、「京都創生」実現に向けて、実りある一歩となることを期待申し上げまして、開会のあいさつとさせていただきます。

 




市長あいさつ


京都市長  門川 大作


門川大作

 皆さんこんにちは。京都市長の門川大作です。
 「日本に、京都があってよかった。」とより多くの方に実感してもらえるよう、日本の財産、世界の宝である京都、その素晴らしさに更に磨きをかけるために、京都市は、市民の皆さんとともに、多大な努力を傾注してきました。そして、同時に、国家戦略として取り組んでもらえるよう、国に対して、様々な制度改革等を要望しています。「国家戦略としての京都創生」とは、こういった取組です。

 この「京都創生」がスタートして10年になりますが、この間、様々な取組を進めています。
 「新景観政策」として、市民の皆さんのご協力を得ながら、建物の高さやデザインの規制等を行っています。とりわけ、現在、最も力を入れているのが、屋外広告物対策です。経過措置期間の終了が来年の8月に迫る中、条例違反となる屋上看板、派手な色の看板、電飾看板の撤去等について、市民の皆さんに大変な御尽力をお願いしております。何卒、ご理解・ご協力いただきますようお願いします。

 また、この10年間で多くの成果も生まれております。
 国において「歴史まちづくり法」が制定され、国の補助金を活用しながら、電線・電柱の地中化をはじめとする歴史的な町並みの保全・再生に取り組んでまいりました。昨年度、無電柱化の工事が完了した上七軒通も、見違えるように美しくなっています。
 これからも、より多くの成果が得られるよう、「京都創生」の取組をどんどんと進めていまいりたいと思います。

 新たな取組もございます。
 東京と京都には、御所がございます。日本人の心の支えである皇室の弥栄のためにも、皇室の方々に、京都にもお住まいいただく双京構想を国に要望しております。
 また、新しい国土軸となるリニア中央新幹線が京都を通らないのは、京都が国際的に果たす重要性を踏まえれば、大変なことです。このため、リニア中央新幹線「京都駅ルート」の実現についても国に要望しております。

 さて、先日うれしいニュースがありました。
 世界で最も影響力があると言われているアメリカの旅行誌が、読者アンケートによる観光地の人気を調査しておられます。昨年、この調査で、京都が日本の都市として初めてベストテン入りし、9位に選ばれました。色々な評価基準で選ばれており、パリは10位でしたが、京都の9位は少し物足りない気もしておりました。
 ところが、この度発表された今年の調査結果では、京都が5位に躍進しました。ローマが6位で、パリは9位でした。今、京都の評価がどんどん高まっています。お寺、神社、すべての観光事業者、そして何よりも市民の皆さんのおもてなしの心、これが功を奏しているのだと思います。

 京都の評価を更に高めていくためには、私は、京都の人間の「生き方の哲学」や「暮らしの美学」が重要になってくると考えています。そこで、地蔵盆や花街の文化、家庭に伝わるおばんざい等の京料理等、世代を越えて伝えられてきた無形文化遺産を大事にしていこうという取組も始めております。
 これらの取組を推進していくには、市民の皆様の御理解が何よりも大事です。引き続きのご支援・ご協力よろしくお願いします。





京都創生取組報告


京都創生推進部長  大瀧 洋


  皆さまこんにちは。京都市京都創生推進部長の大瀧と申します。
 ご存じのとおり、京都が誇る自然・都市景観、伝統文化は日本の貴重な財産、そして世界の宝です。これらを守り、育て、そして未来へ引き継いでいくために、京都市では、市民の皆さまとともに、全国に先駆けて、さまざまな挑戦的な取組を進めています。

 京都市では、大きく三つの分野にわたって取組を進めています。
 まず、景観の分野です。
 「新景観政策」として、建物の高さ規制など、全国に類のない取組を推進しています。とりわけ、屋外広告物については、条例に違反した状態にあるものを全てなくしていくため、対策を強化しているところです。
 また、京町家を守るため、市独自の制度として、「京町家まちづくりファンド」を設けて、改修にかかる費用を助成するなど、様々な取組を進めています。

 次に、文化の分野です。
 京都市では、世界遺産をはじめ、国宝や重要文化財などの保存・継承を進めています。同時に、文化財に匹敵する価値があるものの、その歴史や魅力が十分に知られていないものや、長い歴史の中で引き継がれてきた建物や庭園、そして、京料理をはじめとする京の食文化や、花街の文化などの文化的資産が数多くあり、これらを未来に継承していく取組も進めているところです。

 さらに、観光の分野では、外国人観光客や国際会議の誘致などに積極的に取り組んでいます。
 これらの取組は、着実に成果を挙げてはいますが、残念ながら、京都だけがいくら努力をしても、解決できない課題が数多くあります。

 まず、景観の分野です。
 例えば、市内に約4万8千軒残存すると言われている京町家ですが、相続税や維持管理の問題などで継承することが難しいケースも多く、毎年、約2%が消失しています。
 また、建築基準法ができる前に建てられたものは、増築をしたりする場合に、今の法律の基準に合わせたものにする必要があるため、伝統的な意匠・形態を保てないという課題があります。
 次に、無電柱化ですが、電線や電柱のない美しい町並み景観を作り出すためには、1km当たり約7億円という巨額の費用負担が必要となるといった問題もあり、なかなか進みません。

 文化の分野です。
 伝統文化や伝統芸能、伝統産業など、京都には、ほかの都市にはない、独自のものが数多く受け継がれています。
 しかし、担い手の高齢化や後継者不足、そして、伝統芸能を観賞する方が減ってきたり、伝統工芸品へのニーズが少なくなってきたりしているために、危機的な状況にあるものも少なくありません。
 このように、日本の原点ともいえる京都の景観・文化は、所有者や担い手だけに任せていたのでは、この先、なかなか守り切れない面があり、一刻の猶予も許されない状況にあります。
 そのため、これらを保全・再生していくためには、国による支援が何としても必要になります。
 そこで、「国家戦略としての京都創生」という考え方が必要になってきます。
 このポイントは、京都を「国を挙げて再生し、活用する」というところで、京都創生を国の戦略としてしっかり位置付け、さらに、国が推進する政策を実現するために活用してもらおうというものです。
 梅原猛先生にとりまとめていただいた提言を受けてスタートしたこの取組も、今年でちょうど10年になります。

 京都市では、「国家戦略としての京都創生」の実現に向けて、「国への働きかけ」、「市民の自主的な活動を支援する取組」、「京都創生のPR」の三つの柱を軸に取組を進めています。
 特に、一つ目の「国への働き掛け」が最も重要ですが、制度面や財政面で京都が抱える課題の解決につながるよう、毎年、門川市長を先頭に、国に提案、要望を行っています。 
 また、国の関係省庁との研究会では、国の幹部職員に対して、直接、京都の実情を訴えながら、国と京都市とが一緒になって、京都の役割や活用方策の研究を進めています。

 これまでの取組の結果、既に実を結んでいるものもあります。
 まず、景観の分野では、京都の先進的な取組がきっかけになり、「景観法」や「歴史まちづくり法」という法律がつくられました。  そして、その結果、京町家や歌舞練場など、景観や歴史といった面で重要な建造物を修理する場合などに助成する制度が作られ、これを活用しながら、重要な建造物の改修や無電柱化などを推進しています。
 上七軒歌舞練場では、この助成制度を活用して、屋根や外壁の修理が行われました。また、上七軒通の無電柱化事業も、今年3月に完了したところです。

 文化の分野での成果です。
 まず、二条城ですが、京都市は国の補助制度を活用して、建造物の本格修理に向けた調査工事や障壁画の保存修理を進めています。しかし、多額の費用が必要となりますので、「二条城一口城主募金」へのご協力も広くお願いしているところです。
 次に、文化財の防災ですが、国が新たにつくった補助制度を活用して、清水寺や、その周辺の文化財や地域を火災から守るため、耐震型の防火水槽を整備すると同時に、文化財に燃え広がらないようにするための放水システムを整備しました。これは、全国でも初めての取組です。
 文化庁の関西分室の設置・拡充につきましては、文化庁の機能の一部を京都に設けてもらうよう働き掛けてきた結果、市内に設置されていましたが、昨年度からは、機能を拡充して再スタートしていただいています。京都市も、京都芸術センターでの事業実施などで積極的に協力しています。
 最後に、「古典の日に関する法律」の制定です。これは、11月1日を「古典の日」と定めて、古典に親しもうというものですが、京都の強い働きかけで国会議員の有志に議員連盟をつくっていただき、法案を提出、成立していただきました。この後のパネルディスカッションでコーディネーターを務めていただく山本さんをはじめ、京都市の職員も、何度も国の役所や国会に足を運んでお願いして実現したものです。

 観光の分野での成果です。
 観光庁と京都市との共同プロジェクトですが、国と京都市とが連携して外国人観光客の誘致や、受入環境の充実などに取り組んでいます。これは、京都を世界トップ水準の外国人観光客の受入体制に整えることで、全国のモデルとしようとするものです。

 この他にもまだまだ成果があります。
 例えば、京町家の再生に対して、海外から支援をいただいています。
 これは、京都創生を海外に発信するプロジェクトの一環として、ニューヨークで開催したシンポジウムがきっかけとなって、アメリカの財団から、京町家を改修して活用する二つのプロジェクトに対して、多額の支援をいただくことができました。

 京都創生の取組の意義ですが、この取組によって、国で新しい制度がつくられたり、制度が見直されたりしており、これが京都自身のためになることはもちろん、全国のまちづくりを京都が牽引するという役割も果たしています。

 京都創生の実現に向けて、新たな取組にも挑戦しています。
 国の特区制度を積極的に活用して、京都が抱える課題の解決のために、国の規制の特例措置や税財政の支援措置を設けてもらえるよう、協議を進めています。
 京都市が国から指定された総合特区では、京町家の相続税の問題や、無電柱化の問題をはじめ、京都創生に関わるものも多く提案していることから、「京都創生の推進のための総合特区」といえるかもしれません。
 京都が提案した特例は、国と一つ一つ協議して、合意が得られなければ実現しないため、ハードルは非常に高いですが、実現の見通しがついたものもあります。
 外国人料理人が、日本料理のお店で働きながら学ぶことができるようにするための入国管理法上の特例措置は、既に国と大枠で合意しており、現在、事業の実施に必要な法令の整備などに向け、国と協力して取り組んでいるところです。

 今後も、「日本に、京都があってよかった。」と実感していただけるよう、京都創生の取組をさらに進めて参りたいと考えています。
 今後は、先ほど市長もメッセージで触れておりますが、特に、双京構想や、リニア中央新幹線「京都駅ルート」の実現にも力を入れていかなければなりません。

 最後になりますが、本日ご参加の皆さんにおかれましても、これを機会に、京都の魅力やその裏側にある課題を再発見していただき、京都創生の取組と合わせて身近な人にもお伝えいただければ幸いです。
 皆さまの一層のご支援と、ご理解・ご協力をお願い申し上げまして、京都創生の取組報告とさせていただきます。




パネルディスカッション  「京の美と技 −時を超え 世界から、そして世界へ−」

パネリスト
煖エ 拓児 氏  (京料理「木乃婦」若主人)
鳥羽 美花 氏  (染色画家)
吉田 孝次郎 氏  ((公財)祇園祭山鉾連合会理事長、京都生活工藝館無名舎主)


コーディネーター 
山本 壯太 氏  (古典の日推進委員会ゼネラルプロデューサー)





山本

  皆さんこんにちは。山本壯太です。よろしくお願いします。今日は「京の美と技 −時を超え 世界から、そして世界へ−」という大きなテーマについて考えます。
 「京の美と技」は、一体どこから成立しているのかということが、今日のテーマだと思います。「美と技」、これは非常に幅が広いものです。伝統芸能から伝統工芸、お茶、お華、日本料理、お祭りに至るまで、文字通り日本の各地に「美と技」はありますが、中でも、「京の美と技」は、「日本の美と技」と言い換えて良いぐらいの幅と深さを持っているといえます。
 今日は二つのポイントがあると思います。
 一つは、1200年にわたって日本の政治・経済・文化の中心地であったという京都の歴史性です。この間、京都に一級の人とものが集まることで、現在の京都の持っている美的感覚、つまり美意識が積み上げられてきました。
 そして、もう一つは、古代から、東南アジア、東アジアに限らず、シルクロードを通って、インド、ヨーロッパに至るまで、世界に開かれてきた日本の中の京都であったという世界性です。
 本日は、時間を縦軸に、世界性を横軸にし、「京の美と技」の成り立ちを、専門的な分野において一流の皆さんにお話をしていただきます。
 最初に、今日ご出席していただいている皆さんの、それぞれのお仕事の内容を含めて、「京都と私」といいますか、皆さんが、それぞれの分野で活動するにあたり、京都がどのような役割を果たしてきたのかというところを、お話いただきたいと思います。最初に煖エさん、よろしくお願いします。



煖エ

  私の祖父は、2歳のときに九州の福岡県から京都にまいりました。祖父は、宮内庁御用達の料理屋さんで17年間修業し、のれん分けしていただいて、「木乃婦」という店を立ち上げました。それから、もうすぐ80年になります。
 最初は魚屋でしたので、魚を売りながら御用聞きに回り、焼き魚や出汁巻などをお宅へ届けていました。父の代になり、野菜、魚、果物など、色々なものを扱うようになり、現在の料理屋に至ります。
 私が日本料理を継ぐことは、生まれた時から既に決まっていました。それについての葛藤もありました。しかし、いざ継ぐと決めてからは、祖父や父から受け継いだ経験の中に、如何に自分の存在を明確にしていくか、いままで脈々と続いてきた京都の歴史を邪魔しないように、自分自身の存在をその中に滑り込ませるかということを考えてやってきました。

 料理人になって23年が経ちますが、最近になってようやく、日本料理とはどういうものであるか、分かったような気がします。それは、京都にいるからこそ分かったのだと思います。
 京料理は、色々な専門家の非常に高いスキルが集まった料理です。京都で料理に携わっていると、これを海外の料理と比較したくなり、他国の料理が知りたくなります。
 このため、若い頃、フランスのボルドーやニース、ブルゴーニュの料理店で修業し、日本のだしにあたるコンソメのひき方などを学びました。
 西洋料理は、肉を炒めたり、野菜を5、6時間煮込んだりすることで、香ばしさや旨味を引き出します。一方、日本料理では、わざわざそういうことはしません。北海道の利尻島や函館で採集し、2年間熟成させ、おいしいだしが取れるよう生産者が素晴らしい技術でつくった昆布を使います。かつお節や味噌、しょうゆも同様に、生産者が手間をかけてつくったものです。
 つまり、日本料理は第1次産業、第2次産業なしには成立しない、全国の多くの人に支えられている料理なのではないか。しかも、それを支える皆さんは非常に高いスキルを持っている。非常に高いレベルで作りこまれているのが日本料理ではないかということに、やっと気が付きました。
 また、海外での日本料理は外国人がつくっているという事例が多いのですが、外国のシェフに、日本で実際に日本料理を勉強していただき、学んだことを自国に持ち帰って広めてもらえるよう、その受け入れもさせていただいています。  私にとっての京都は、自分の店を育ててくれる場所でもあり、様々な専門家の方々と、一緒に未来に向かって進んでいける、素晴らしいまちです。



山本

 それでは次に鳥羽さん、お願いいたします。



鳥羽

  私は愛知県清須市の出身です。清須市は、京都とも位置的にも近く、こどもの頃から非常に馴染があったこともあり、自然な流れで、京都市立芸術大学と大学院の6年間を京都で学ぶことになりました。
 大学の時、染色に無限の可能性を感じて専攻し、中でも、「型染め」という技法を選択しました。「型染め」は、刀で彫った型紙を使い、非常にシャープな線をつくり出します。具体的な方法としては、布の生地のよさ、染めの美しさを加算していくものですが、考え方の基本となっているものは「引き算の美」であって、色々なものをどんどん省略し、核心を表現するというものです。
 学生時代、日展を中心に作品を発表していましたが、次第に、時代は絶えず変化しているのに、自分の生活や作品のモチーフ、千年前同様の「引き算の美」の技法は、果たしてこのままで良いのだろうかということを考えるようになりました。だんだんと窮屈さを感じるようになり、作品づくりがしんどくなった時期がありました。
 そんな中、訪れたのが、経済発展が目覚ましいベトナムでした。私が最初に訪問した1994年当時のベトナムは、活気と喧噪のエネルギーに満ちていました。隣接する中国文化と、フランス統治時代の余韻がバランスよく混じり合い、メコン川がもたらす肥沃な大地に人々の安閑とした生活がある。私はそこに非常に惹かれました。
 その風景に、自分の生活では得られない、物をつくる原動力を強く感じました。そして、同時に、「引き算の美」ではなく、混沌とした目の前の風景をどんどん「足し算」にしていってもいいのではないかと、「型染め」の新たな技法を思い付きました。
 ベトナムでは、植民地時代の名所旧跡、サイゴン川の支流、ベトナム戦争の流れを残したバラックなどの風景を通して、国の歴史、人々の営みを見てきたのではないかと思います。それは、「風景に人格が宿っている」ということを感じ、「風景を作品にしたい」と思うようになった、私にとっての転換期でした。
 失われていくベトナムの風景を「型染め」という技法で残していきたい、そして、千年以上受け継がれていた「型染め」の技法を次に引き継いでいけたらどんなに良いだろうかと思いました。大きな作品を、まるで見る人たちが、その風景の目の前に立つような感じで作品を作っていきたいと考えていました。
 しかし、「型染め」に対する考え方が少し変わったとはいえ、技法や道具は昔からのものを使いたいと考えていました。長い年月をかけてふるいにかけられ残されてきた精神性を作品の中に入れたかったからですが、その考えは今も変わっていません。
 一方、私は、作品を日本だけではなく、ベトナムの人にも見ていただいきたいと思うようになりました。前例のない中で、そのルート探しは困難なものでしたが、ベトナム政府にも掛け合い、フエの王宮などで展覧会を実現することができました。
奈良時代より伝承された世界に誇る日本文化の一つである「型染め」という染色技法を、私がベトナムに持ちこみ、今年で20年が経ちます。その間、日本では職人さんや道具など、未来への継承が難しい状況になってきました。
そのような中、ベトナムで色々なマスコミが、「型染め」という技法の素晴らしさを取り上げてくれました。振り返って考えると、日本の生み出した伝統文化にあらためて焦点をあてるきっかけを与えてくれたのではないかと思います。



山本

 ありがとうございました。キーワードとして風景という言葉が出てきましたけれども、そちらについて後ほどお話を伺えればと思います。
 それでは、吉田さん、よろしくお願いいたします。



吉田

 私は1937(昭和12)年に生まれ、76歳になります。中京区新町六角下ルの北観音山町に位置する私が生まれた家は、友禅模様に染め上げる前の素材を扱う、白生地問屋でした。

 小学校に通い始めたのは昭和19年です。現在、京都芸術センターとなった明倫小学校が私の母校です。私が小学校を卒業した頃は、戦争に負けて日本は非常に精神的なショックやら、食べるもののない貧しさやらで、日本人としての誇りを、ともすれば失いかけていたころのようにも思います。
 私は現在、祇園祭山鉾連合会理事長として、33カ町を統括する仕事をさせていただいていますが、祇園祭も戦争のために昭和18年から山鉾行事は行うことがでませんでした。
 昭和22年になり、祇園祭の山鉾巡行の一部が再開されることになりました。皇国史観に基づく神社が行う祭であり、また、それに伴う立派な美しい祭具というものが、ひょっとすれば没収されるかもしれないという心配の中、私たちの父親の世代が、恐る恐るGHQに願いを出たところ、意外なことに二つ返事で許可が出たため、部分的ではありますが、山鉾巡行が復活しました。
 翌年に、新町通に、私の属している北観音山と船鉾が建ち、四条寺町までの往復巡行が実現しました。私の属する北観音山は、いわゆる後祭に属しておりましたので、24日まで町内に建て置き、毎日はやしをしたのですが、私はそのときから、祭人になることができたのだと思います。
 当時、私は小学5年生でしたが、父が裃を着て北観音山を先導している姿を見て、「ぼくのお父さんはこんなに美しく立派な人なのか」とほれぼれしたことを、いまでも鮮明に覚えています。
 家の向かい側には、720坪の土地を擁した松坂屋呉服店が、1軒北隣には、1600坪を擁した三井両替店の堂々とした八棟造りの建物がございましたが、最近では様変わりして、家の向かい側では、来年からホテルが開業するようです。現場では、発掘調査が実施され、平清盛が日宋貿易で輸入した生活雑器が大量に出土しました。そこからは、当時の人々がかなりしっかりとした商いをしていたことが分かりました。
 鎌倉時代から室町時代の初期の頃には、六角町生魚供御人という、琵琶湖の魚を買い取って御所に納める非常に誇り高い商人が町内に住んでいたことも分かっています。当時の生活面からは、麹をつくる室跡が出てまいりまして、その室の礎石に賀茂紅石という非常に美しい石を使うなど、その時代の商人が、単にお金もうけの商売だけでなく、美を意識していたということも感動的でした。
 調査の結果、私が祭人となる契機となった北観音山は、六角町生魚供御人たちが、彼らの経済力や「都市市民としての教養」で、その祖型をつくってくれたのだということが分かりました。
 江戸時代になると、京都商人の多くは、「堪忍」と書かれた木額を商いの場に掲げていました。これは、一人勝ちするような商売ではなく、お互いが我慢をすることによって利益を分かち合うのが京都の商人の姿だということを表しています。これは、亀岡から京都に出て呉服修行をした石田梅岩という人物が提唱した石門心学の考え方であります。当時の商人たちには、この石門心学というものを皮膚感覚にまで親しんで商いをしていました。

 私は、これらの示す格調の高さといいますか、美しさといいますか、そういうものを今後の京都創生の礎としたいと思っています。私と京都を語れば、以上のようなことになります。



山本

 ありがとうございました。皆さんのそれぞれの分野でのお仕事、京都について感じていらっしゃることを語っていただきましたが、この後、主に三つのアングルから、「京都の美と技」を見てみたいと思います。
 一つ目は、「京観」といいますが、京都の景観です。山紫水明、四季自然、まちなみ、寺社仏閣など、ハード面と言ってもいいです。
 二つ目は、京都を感じる「京感」です。京都人の感性とか美意識、美術、工芸、茶、お華、お料理ほかの生活文化、あるいは祭り、伝統行事。いわゆるソフト面。
 三つ目が「京涵」。育てるという意味の涵です。次世代を涵養するための社会的な環境、文化経済、文化施策、創造都市、大学など、ある意味での文化力。
 これら三つのアングルから、それぞれの皆さんのお仕事を語っていただけたらと思います。
 特に、最初の「京観」につきましては、先ほど、鳥羽さんの方から風景という言葉が何回も出ていますけれども、京都の景観をどのようにお感じになって、ベトナムの景観を作品にされているのかも含めて、よろしくお願いいたします。



鳥羽

 京都の美しさは、完璧につくられた美しさだと感じます。ですから、若いときには、なかなか入り込めませんでした。京都の景観を見て、そこに自分のイメージを膨らませて作品にしていくという怖さがあったのと、完璧すぎて、どこにどのように入っていったら良いかが分かりませんでした。
 しかし、ベトナムで「風景にも人格が宿っている」と気付いてから、「京都のまちの隅々に高貴な人格が宿っている。生き生きとしたまちだ」と思うようになりました。
 一方、ベトナムには、自分の作品づくりの原動力みたいなものがあったので、それを追い掛けて制作に取り組んできました。本当にエネルギーのある国だなと。



山本

 ありがとうございました。ベトナム戦争は、私の世代の悲劇だったのですが、その後のベトナム復興のエネルギーみたいなものが鳥羽さんの非常にダイナミックな作品の秘密なのではないかとも思います。では、次に煖エさん、いかがでしょうか。



煖エ

 私の思う京都の景観ですが、料理屋でいうと、「出入り」という言葉があります。お客さんのところに「出入り」させてもらっているという意味ですが、料理というのは、食べる場所によってかなり変化をしていきます。ですから、食べる場所によっておいしくもなりますし、まずくもなります。
 例えば、お寺さん、神社さん、京都迎賓館など、提供する場所の特性によって料理が変わります。また、その場所にはそれぞれ歴史がありますから、その歴史に沿った食べ物を出さなくてはいけません。「出入り」する際には、そこに相応しい料理を考えます。
 料理は、料理人である私が主張するものではなく、そこのお客さんに相応しいものを考えなければなりません。例えば、お店として初めての精進料理をつくるときには、事前にサンプルを一つお持ちして、皆さんに召し上がっていただき、味付けやメニューを検討していく。この過程を通じてうちの新しい料理ができてくる。つまり、景観が料理を動かしていくということではないでしょうか。
 それは、その場所の歴史を継承してきた、その場所に住んでいらっしゃる方々、その場所を管轄している方々の意識によって料理が動かされるということで、ずっとこの1200年の間、景観によって料理は、育てられているというように感じます。



山本

 ありがとうございました。この京都のまちの変貌を一番見続けてきていらっしゃる吉田さん、特に町家の変貌みたいなことをぜひお話しください。



吉田

 京都市のパートナーシティーであるトルコのイスタンブールやベトナムのフエなどと比べると、京都は景観の美しさが損なわれていると感じます。毎日、40〜50分散歩していますが、都度、そう実感します。私は1937年にああいう表構えを持った家に生まれましたが、この京都市の今と将来がどうなっていくのかを絶えず考えています。単なる町家ブームに留まらず、京都市の現在・未来にふさわしい、格調ある町並みをどのように作っていくかということを、課題として考えています。



山本

 ありがとうございました。
 それでは次の「京感」に移りたいと思います。
 1200年の歴史の中で、町衆、お坊さん、学者さん、様々な人たちがうまく混じり合って、伝統を築いてきました。その中で、生活文化・京料理含めて、京都人の独特の美的センス、美意識をつくってきたと思います。
 そういった京都独自の文化的な伝統背景を、どのように活用し、どのように生かしていくのか、お話を伺いたいと思います。煖エさんからお願いします。



煖エ

 悪い表現になりますが、私は、先人の知恵というのは人体実験の繰り返しだったと思っています。
 美術や工芸などもそうなのだと思うのですが、特に料理は、実際に食べてみて、おいしいか、安全かどうかを判断して次代につないできたものです。フグやキノコなどには毒が含まれるものもありますので、縄文時代などにはたくさんの人が命を落としています。先人たちの、命を懸けた実験の結果が積み重なって、おいしい食文化を生んだのだと思います。
 特に京都には、色々な国や地方から、色々な食品が入ってきましたので、「これとこれを試してみよう」と、その結果、「おなかが痛くなった」「これは大丈夫やった」というようなことを繰り返し、洗練されることで、食に対する感性、美意識を作り上げてきたと思います。
 ですから、現代の料理人ついても、それぞれの素材を吟味し、もっとおいしいものができないかと考えることや、未知なる食材への新しいアプローチを模索することが必要だと考えています。



山本

 京都は、1200年の色々な意味で中心地であったわけですから、いま煖エさんがおっしゃったように、日本国内だけではなくて、海外からも、色々な意味での超一級の人やものとかが集まってきているのだと思います。
 そういう蓄積の上に立っている京都人は、「これからも頑張らなあかん」と、そういう責任があるのではないかとも思います。
 鳥羽さんは私と同じで京都生まれ育ちではないのですが、いかがでしょう。



鳥羽

 以前、展覧会のレセプションで、「今日は色々な地方から先生方に来ていただいています。それでは東京の○○先生」と紹介がありました。「あっ、京都では東京も地方の都市の一つなんだ」とびっくりしました。  京都の人はとても誇りが高いと感じました。



山本

 ありがとうございました。では、吉田さん、お願いいたします。



吉田

 私の家では、料理において、素材そのままの味を生かしたものを食べることを重視してきました。建物でも、どんなにデザインが良くても、素材が悪ければ、本当の美しさは現れません。
 京都の昔からの建物は、千年の間磨き込んで、そして選び抜かれたもので出来上がっています。長い時間の経過の中で選んできた素材をうまく組合せ,京間の寸法で表現されているのが、京町家なのです。



山本

 ありがとうございました。
 ここまでは、現状の分析のようなお話であったかと思います。
 ここからは、本日の大命題である、京都創生を実現するためにどのような方向に行くのかというお話に移らせていただきたいと思うのですが、その前に、京都というのはいったいどういうまちなのか、客観的なデータを紹介したいと思います。
 日本の大都市を比較した場合、東京と京都の二つの都市は文化産業(インターネットサービス業、映像、音声、情報制作など)、放送、新聞出版、著述、芸術、デザイン、教養技能教授(茶道・華道など)、社会教育施設(図書館、美術館など)、大学学術文化団体、宗教など)の従業者の占める割合が圧倒的に高いまちといえます。
 その中で、この二都市が決定的に違うのは、京都は宗教、大学学術文化団体がそのほとんどを占めているのに対し、東京はそれ以外の文化産業従事者が断トツで多いということです。つまり、文化的・情報的な事業、業態が、ほとんど東京に一極集中してしまっている状況がよくわかります。また、よく言われることですが、京都は、大学都市であり、宗教都市であることが分かります。
 世界都市(ワールド・シティー)という概念と、創造都市(クリエーティブ・シティー)という概念があります。
 世界都市(ワールドシティー)は、20世紀後半、1950年代以降のいわゆる巨大都市です。経済活動、特に金融を中心にした巨大都市のことで、ニューヨーク、東京、ロンドン、香港、シンガポールなど、非常に大きく、経済的で、世界的な企業を有しているような巨大都市が、20世紀後半の非常に大きな力になってきました。
 それに対して、創造都市(クリエーティブ・シティー)は、21世紀に入ってから生まれた概念です。創造都市は、固有の歴史的都市文化を持ち、巨大都市とは違って、人間的な生活がしやすい、住みやすい都市のことです。例えば、大学都市であるボストン、観光都市のベネチア、一種の芸術都市であるバルセロナなどが挙げられます。
 私は、京都創生というのは、おそらく創造都市を目指すことではないかと思っています。
 人口的なスケールも適度で、住みやすい、それぞれがまちの個性をしっかり保っている。そのような都市でありたいと運動を進めている都市がかなり出てきていると言われていますが、京都もその一つだと思います。
 ここからは、例えば、日本料理なら、これを世界に広めていくため、今後の次世代のために京都はどうあるべきなのだろうという提言をお話いただければと思います。



煖エ

 今、料理界全体で、和食を世界遺産に登録しようという活動を行っております。何故このような活動をしているかと言うと、先ほど申し上げたように、日本料理は、第1次産業、第2次産業に支えられた素晴らしい文化形態を持っていますが、それを説明できる人は非常に少ない状況です。日本人として日本料理をどのように捉えたら良いかを、世界遺産登録を通じて皆さんにわかっていただきたいという強い思いがあるからです。
 また、料理人は、新しい提案をしていくことが必要です。
 人間は飽きる動物ですが、飽きるという行為が人間の味覚の多様性を生み出しています。例えば、おいしいからと言って、世界中の人が米ばかり食べれば、地球上から米がなくなります。このため、「次は小麦が食べたいな」「次は麺を食べたいな」と切り替えることが食の多様性を生み、それぞれの文化形態が生まれて、食材の枯渇が防がれます。また、体の機能面では、おいしいからと言って同じものばかり食べているとバランスが崩れ、エネルギー代謝が悪くなります。僕は、日頃の生命の営みのサイクルを、うまく回るようにするのが、食文化だと思っています。そして、その一端を担っているのが料理人だと考えています。
 平安時代の宮廷料理、鎌倉時代の精進料理、室町時代の本膳料理、茶懐石、おばんざいなど、料理は時代背景を踏まえてどんどん変化してきました。変化に合わせて、僕たち料理人も変わっていかなくてはなりません。「もう飽きてきた。ちょっと変わったことをしてくれ」と言われるのが料理人の定めなので、新しい提案をすることが必要です。
 更に、僕には次世代の料理人を育成するという責務があります。うちだけでなく他の料理屋さんも含めて、15〜20歳年下の料理人を育てることも自分の仕事だと思っています。



山本

 煖エさんは京都大学で研究をなさっていらっしゃるということもございますが、昔風に、包丁一本で修行に出られたことはあるのですか。



煖エ

 あります。東京の吉兆さんに5年間お世話になりまして、最後の1年間は創始者の湯木貞一さんの秘書をさせて頂きました。その間、一か月のうちの半分くらい、寝食をともにさせていただきました。



山本

 そういうことは、科学的な研究とは別に必要であるということですか。



煖エ

 必要です。



山本

 分かりました。建仁寺さんの、大きな型染めの襖絵に精力的に打ち込んでおられ、間もなくパリでも展覧会を開くという、まさに「世界の鳥羽」という風に羽ばたいていらっしゃる鳥羽さん、よろしくお願いします。



鳥羽

 栄西禅師八百年大遠諱に当たる2014年に、建仁寺さんの小書院に16面、その後大書院の36面の襖絵の作品を納めることになりました。今後は、私の作品を、ベトナムだけではなく、ヨーロッパでも紹介したいと考えています。それには、私の作品をそういった国々の皆さんに見ていただくということだけではなく、別の目的もあります。
 私は京都精華大学で教鞭を執っていますが、学生には「海外に出た時に自分は何を中心にして日本を語るのか。自慢できるものを持って外に出てほしい」と言っています。学生や若い人が世界に出て行くとき、日本を語る際の武器になるものとして、お茶、お華、日舞、お料理等色々あります。そして、その一つとして「型染め」という選択肢もあると思っています。そのような場での、伝統に裏打ちされたものの強みがあると思います。
 話題が変わりますが、日本は、若い人の活動をサポートする体制が、助成金も含めてですが、他の先進国に比べて弱いように思います。
 また、海外から来たお客さんや、京都以外の地域の人から、「京都は革新と伝統のまちである。しかし、伝統の作品は見られるが、革新的な今の作品を一堂に見られる場所が少ない」との声をよく聞きます。確かに、そういう場所は少ないと思います。
 このような状況の中で、たとえば、壊されそうな町家を活用して、卒業生が作品をつくり伝統を継承できる場にできないかと、いつも思います。
 「育てる」という体制をつくることは、そんなに大変なことではないのではないか思っています。いろいろな取組をしている京都が発信源になれば、もっと日本中が良くなるのではないでしょうか。



山本

 ありがとうございました。非常に具体的なご提言をいただきました。では、吉田さん、お願いいたします。



吉田

 私の家は1909年に建った家で、わずかに104年の歴史しかないのですが、11世紀からずっと商人が住み続けた場所です。建物は104年の歴史ですが、千年間の経験が積み重なって到達したのが、表屋造りという様式です。単に町家保存だけの観点に留まらず、京都はそういう運命を背負っているまちですから、格調高くあってほしい、格調高くありたいと考えています。
 その格調高い生活を人に知ってもらいたい。そして、商行為に励むとともに、動く美術館といわれるほどの山鉾風流をつくりあげた、先人たちの都市市民としての教養を、もう一度取り戻したい。
 そのため、現在は途絶えている祇園祭の分離巡行を神幸祭に伴う7月17日と同月24日の還幸祭の2回に分ける方式を近々復活させたいと思っています。そして、そのための条件はほぼ整ってきています。
 公益財団法人山鉾連合会の理事長である私は76歳ですが、私よりも一世代若い副理事長2名が脇を固めてくれています。その人たちの熱心な取組によって、分離巡行が実現します。彼らは、私にとって宝物です。
 また、私の町内に住んでいる、ある家のお孫さんが、ことし初めて囃子方になりました。そういう子どもが囃子方という格好で名乗りを上げてくれる。そういった人たちに期待するところは非常に大きいです。近年、圧倒的に増えてきたマンション住まいの若い世代は、祭の未来を担う存在でもありますから、そうした皆さんに祇園祭の意義をきちんと伝承するのが私の責務だと思っています。



山本

 ありがとうございました。本当に力強い言葉をいただきまして、ほとんどこれでおしまいという結びの言葉になったのではないかと思います。
 本日は、それぞれの分野で大変活躍されている皆様に、「我々と京都」をポイントとして話を伺ってまいりました。
 おそらく京都が目指すべき方向は、世界的な大都市ではなく、もっと人間的に住みやすく、文化や個性、そういうものが薫る創造的な都市であるように思います。
 先ほど吉田さんから、景観について厳しい指摘がありました。確かにヨーロッパのプラハやボストン等、創造都市のモデルとされているような都市と比べるとどうなのかという声もあろうかと思います。
 京都市も、平成19年に「景観法」ができて、「新景観政策」として、看板の派手な色を取ろうとか、高さの制限、あるいは景観の見え方、そういうことも含めて一生懸命取り組んでいるところだと思います。
 しかし、まだ様々な問題が山積していることは確かで、その解決に向かって、市も国に対して働き掛けているのですが、一方で、われわれ一人一人がどのように京都を考えればよいのかということは、とても大切なことだと思います。
 私は東京に40年ぐらい住みましたが、東京は巨大すぎて、とても「私のまち」という発想は持てませんでした。京都に来てまだ10年ほどしか経過していませんが、京都は風光明媚で、山に囲まれ、親しみの持てる「愛しているまち」という感覚を既に持っています。  私たちは、「ここは私のまちです。私にとっての京都です。」という感覚を持ち得るが、次の世代も同じ感覚を持てるようにするためには、何ができるのか。そういった意識で「いろいろな側面から見ていく」「臨んでいく」「行動していく」ということがとても大事なのではないかと、今日のパネリストのお話から、そのような感想を持ちました。
 他にも話題を用意していましたが、お時間となりました。残念ですが、ここで終了としたいと思います。
 本日はどうもありがとうございました。

(終了)



写真提供:京都新聞社








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