趣旨説明
「国家戦略としての京都創生」の取組について

京都市総合企画局政策企画室 京都創生推進部長
西野 博之


 本日は寒い中、多くの皆さまにご参加いただき、誠にありがとうございます。

 このセミナーは、簡単に言うと、市民の皆さまに京都創生の取組をより多く知っていただき、自分たちでできることをもっと考えていただきたいという趣旨で開催させていただいているものです。

 講演の前に、京都市が進めている京都創生の取組について、簡単にご報告をさせていただきたいと思います。

 さて、皆さまもよくご存じのとおり、歴史都市京都が誇る自然、都市計画、伝統文化は世界の宝、日本の貴重な財産です。これを守り、育て、そして未来へ引き継いでいくため、京都市では市民の皆さんとともに、全国に先駆けてさまざまな挑戦的な取組を進めています。

 京都市の取組ですが、大きく、景観・文化・観光の三つの分野にわたって進めております。

 まず、景観の分野では、平成19年から始まった、全国で最も厳しいといわれている建物の高さ規制をはじめとする新景観政策があります。これを、市民の皆さまの多大なご協力をいただきながら実施しています。最近では、屋外広告物について、条例の基準に違反した状態にあるものを全てなくしていこうという対策を強化しているところです。

 次に、京町家を守るために京都市独自の制度を設けております。平成17年に京町家まちづくりファンドを設け、改修にかかる費用を助成するなど、さまざまな取組を進めています。

 文化の分野ですが、市内14カ所の世界遺産をはじめ、全国の約19%が集まる国宝、15%が集まる重要文化財など、歴史的文化的資産の保存継承を進めています。観光の分野では、外国人観光客や国際会議の誘致などに積極的に取り組んでいます。

 しかしながら、京都だけがいくら努力しても解決できない課題が数多くあります。まず、景観の分野です。一つ目は京町家です。現在市内に約4万8千軒残っているといわれていますが、これが、相続税や維持管理の問題などがあり、なかなか継承することが難しいケースが多くあります。その結果、毎年約2%ずつ消失しているという状況です。

 また、「建築基準法」ができる前に建てられたものは、増築したりする場合、いまの法律の基準に合わせたものにすることが必要になってきますので、伝統的な意匠、形態を保てないという課題があります。

 二つ目は無電柱化です。電柱や電線のない美しい町並み景観をつくり出していくためには、1キロメートル当たり約7億円という巨額の費用負担が必要となってくる問題もあり、なかなか進みません。外国を見ると、パリやロンドンといった世界的歴史都市では無電柱化の達成率が既に100%に達しているということです。

 その一方で、京都市内では、歴史的な景観に配慮すべき地域を含みます一部地域に限っても、まだ7%程度という状況です。そのペースで進めていくと、この計画を達成するためには、あと70年以上かかってしまうという、非常に気の長くなってしまう話になってしまいます。

 一方で、文化の分野での課題ですが、伝統文化、伝統芸能、伝統産業などは、京都にはほかの都市にはない独自のものが数多く受け継がれておりますが、担い手の高齢化や後継者不足、そして、暮らしの文化に触れる方が少なくなってきたり、伝統芸能を鑑賞する方が減ってきたり、伝統工芸品へのニーズが少なくなってきたりしているため、危機的な状況にあるものも少なくありません。

 このように、日本の原点ともいわれる京都の景観・文化は、担い手や所有者だけに任せていたのでは、この先、なかなか守りきれないといった面があり、一刻の猶予も許されない状況にあります。

 そのため、これらを保全、再生していくために、国による支援が何としても必要になってきます。そこで国家戦略としての京都創生という考え方が必要になってくるのです。

 ポイントは、国を挙げて再生し活用するということで、京都創生を国の戦略として、しっかり位置付けるというところにあります。この考え方による取組は、梅原猛先生に取りまとめていただいた提言を受けてスタートしています。

 京都市では、国家戦略としての京都創生の実現に向けて、国への働き掛け、市民の自主的な活動を支援する取組、そして京都創生のPR、この三つの柱を軸に取組を進めています。

 特に一つ目の国への働き掛けが最も重要になってきますが、制度面や財政面で京都が抱える課題の解決につながるよう、毎年時期を捉えて国に提案、要望を行っています。昨年末、新しい政権ができましたが、今週1月16日には早速、門川市長から京都創生の推進について国に強く要望していただいているところです。

 また、国の関係省庁との研究会をつくっており、現在、六つの省庁から26名の幹部に参画いただいています。こうした研究会では、国の省庁の幹部に対して、直接京都の実情を訴えながら、国と京都が一緒になって京都の役割や、活用方策の研究を進めています。

 京都創生の主な取組の成果ですが、これまで国へ働き掛けてきたことを通して、提案や要望の一部は既に実現しています。

 まず、景観の分野ですが、京都の先進的な取組がきっかけとなり、「景観法」、「歴史まちづくり法」といった法律がつくられました。そして、こうした法律に基づいて指定された京町家など歴史的建造物については、修理する場合に助成が出る制度が作られました。また、この制度を活用して、歴史的建造物の改修や無電柱化などを推進しています。

 文化の分野での成果ですが、まず、二条城です。京都市は国の補助制度を活用し、二条城の二の丸御殿、本丸御殿などの本格修理に向けた調査工事、障壁画の保存修理を進めています。しかし、本格修理となると多額の費用が必要になってきます。そのため二条城一口城主募金のご協力も広くお願いしているところです。

 二つ目は、文化財の防災です。国が新しくつくりました補助制度を活用し、清水寺やその周辺の文化財、地域を火災から守るために、高台寺公園の地下と清水寺の境内の2カ所に、25メートルプール五つ分に相当する耐震型の防火水槽を整備しました。同時に、法観寺の境内には、文化財に燃え広がらないようにするための放水システムを整備しました。これは全国でも初めての取組ということです。

 三つ目は、文化庁の関西分室の設置拡充です。これについては、京都市をはじめ、文化的資産が数多く存在しております関西に、国の、文化庁の機能の一部を設けてもらうように国に積極的に働き掛けてきました。

 これまで京都国立博物館の中にあったものの、設置期限がきてしまうため、いったん廃止しましょうということだったのですが、この機能を拡充した上で、引き続き残してもらうように強く要望した結果、今年度から機能を拡充して再スタートしていただいています。京都市でも、京都芸術センターでの事業実施などを通じ、これに積極的に協力していくこととしています。

 最後は、「古典の日に関する法律」の制定です。これはご存じのとおり、11月1日を古典の日と定めて、古典に親しもうという趣旨のものですが、これも京都の強い働き掛けにより、国会議員の有志の方に議員連盟をつくっていただき、法律を提出、成立してていただきました。私たち京都創生担当も、何度も国の役所や国会に足を運んでお願いして実現したものです。

 観光の分野ですが、平成23年1月から国と京都市とが連携し、観光庁と京都市との共同プロジェクトによる外国人観光客の誘致や受け入れ環境の充実などに取り組んでいます。これは、京都を世界トップ水準の外国人観光客の受け入れ体制に整えるという内容で、全国のモデルにしようというものです。

 このほかにもまだまだ成果はあります。例えば、京町家の再生に対して海外から支援をいただいております。京都創生を海外に発信するプロジェクトの一環として、平成20年にニューヨークで京町家シンポジウムが実施されました。この結果、アメリカのワールド・モニュメント財団というところから、京町家を改修して活用する二つのプロジェクトに対して多額の支援をいただくことができました。

 京都創生の取組の意義ですが、これらの取組により、国で新しい制度がつくられたり、見直されたりしており、それが京都の歴史的景観の保全再生や文化財の保存、継承に対して大きな効果をもたらしています。二つ目としては、全国で進められている歴史・文化を生かしたまちづくりを京都がけん引するといった役割も果たしております。さらには、国が目指している観光立国・日本にも大きく貢献しています。ここに、京都創生の取組の大きな意味があると考えています。

 京都創生の取組は、ただ国に求めればいいものではありません。地元京都でも、市民の皆さまや企業、団体と京都市が、オール京都で進めていかなければなりません。そのため、企業、団体、市民の皆さまと一緒につくった京都創生推進フォーラムを中心に、本日のこのセミナーなどを通して、京都創生の取組をお伝えしたり、市民の皆さまの自主的な活動を支援したりすることで、京都創生の機運を高めていこうとしています。

 また、首都圏では京都創生をPRする「京あるきin東京」を開催しています。これは、京都にゆかりのある企業、団体、大学の皆さまにご参画いただき、約2週間にわたって東京のさまざまな場所で、京都の魅力を集中的に発信するものです。

 昨年は、京都市などの主催事業だけでも約16万人もの方に参加いただき、マスコミにも数多く取り上げていただきました。広く京都市の取組をPRすることができたと考えています。今年も2月4日から同じイベントを開催する予定ですので、首都圏にお知り合いがいる方がいらっしゃいましたら、ぜひご紹介いただければと思います。

 京都創生の実現に向けて、新たな取組にも挑戦しています。国がつくった総合特区という制度を活用して、京都が抱える課題解決のために、国に規制の緩和であるとか税財政の支援措置、こうした特例を設けてもらえるように協議を進めています。

 この特区は、京都観光の質をさらに高めていく、「5000万人感動都市」を目指すものです。提案内容には、これまで国に訴えてきた、京町家の相続税などの問題、無電柱化の推進の問題をはじめとし、京都創生に関わるものが多く含まれておりますので、京都創生推進のための総合特区とも言えるのではないかと思っています。

 実は、これまでに提案した特例措置は、提案すれば実現するというものはありません。国と一つ一つ協議をし、国から合意が得られなければ実現しません。現在のところ、実現に向けて大きく動いているものもありますが、一方で厳しい指摘を受けているものも多くあります。一つ一つ実現していくためには、なかなか難しい問題もありますが、これらの取組も積極的に進めていきたいと考えています。

 今後も京都の持つ強みを最大限に生かし、魅力をさらに高めることにより、日本に京都があってよかった、世界に京都があってよかった、と実感していただけるように、京都創生の取組をさらに進めてまいりたいと考えています。

 最後になりますが、本日ここにお集まりの皆さまにおかれましても、このセミナーをきっかけとし、京都の魅力や、その裏側にある課題を再発見していただき、京都創生の取組と合わせて、身近な方にお伝えいただければと思います。

 皆さま方の一層のご支援とご理解、ご協力をお願い申し上げまして、京都創生の取組報告とさせていただきます。ご清聴ありがとうございました。





講 演
『書のあるくらし』

 

書家
杭迫 柏樹氏


ほとばしる生命を表現する書の魅力

 杭迫柏樹でございます。ただいま、西野京都市創生推進部長のお話を伺い、京都というところがこんなにすごいところかというのを、改めて知りました。世界に京都があってよかった、日本に京都があってよかった、そのとおりだと思いました。また、そのようなところにいま住まわせていただき、ありがたいと改めて思いました。今日は眼前に、嵐山と大堰川がございます。こんな素晴らしい会場でお話をさせていただくことを、大変光栄に思います。

 私は、京都創生のために、何かお役に立てれば、書を通してなにがしかお手伝いができればという思いで、今日まいりましたが、書家というのは書いてなんぼの人間ですから、お聞き苦しいところはご勘弁いただきたいと思います。

 京都は、本当にいい書がまちを歩けばいっぱいあるのですが、まず、書とはいったい何かというお話をさせていただきます。

 書というものは一体何だろう。展覧会などに行くと、「読めない、分からない」と言って、入り口に立ったまま、中に入らないで帰ってしまう人がたくさんいますが、これは些か見方が浅いと思います。本当は中に入ってゆっくり鑑賞していただきたいです。

 東洋の芸術には、書はもちろんですが、絵画や彫刻などいろいろなものがあります。その中で、長い間、東洋芸術の第一は、書であったのです。一方、ヨーロッパでは彫刻が第一だったのです。絵画は彫刻の代理で生まれたものです。東洋において、書は約3500年の歴史があるのですが、芸術としての絵画というものは1000年、古くまでたどっても1500年ぐらいの歴史でしょうか。ですから、やはり3500年の歴史のある書が、東洋芸術の第一であると評価されてきましたし、さらには書に携わる人が立派な人が多かったのです。中国では科挙試験というものがあり、書道が備わっていないと科挙の試験に合格しませんでした。素晴らしい人物が書に携わるので、出来上がったものもまた素晴らしいということで、東洋芸術の第一といわれてきたのです。

 ところが、時代とともに、だんだんと分業化が進み、昔にはなかった、書家という職業が生まれてきます。このころから、東洋芸術の第一は書ではなくなってしまったのです。いまでは、芸術世界の片隅に置かれてしまっているのが現状です。

 しかし、私はせっかく今まで書に携わってきたので、もう一度、書が東洋芸術の第一であるという復権運動を生涯かけてやりたいと思い、いま勉強しているところです。

 書とはいったいどのようなものか。簡単に言うと、書には命がこもっている、もっと大げさに言うと、魂がこもっているといわれています。これが活字で書いたものとは違うのです。そこで「書は人なり」という言葉が生まれるのです。実は、「書は人なり」というのは、少し乱暴な言い方で、「書はその人の如し」というのが正しい表現です。書いた人がよく表れる。ですから、素晴らしい人物が書くと素晴らしい書ができ、つまらない書はやはり書いた人物がつまらなく見えてしまうものなのです。

 ただ、技術を伴う世界ですから、立派な人間なら必ず立派な書ができるとは限らないのです。例えば、ピアノを弾く場合、立派な人間ならピアノがうまいかというと、そうではありません。水泳でも何でも技術を伴うものは、訓練をしていかないと、その人間を表すのはなかなか難しいのです。そこで、書が難しくなってくるわけです。

 一口で「書は何ぞや」と言うと、私の答えは「書は切り口の芸術である」ということです。書かれた形を見て、上手いとか下手とかというのは本当の見方ではありません。形を見ないで、書かれている線を、ずばっと切ったとします。その切った切り口から、生き生きとした血が湧き出るような書だったら、これは読めなくても素晴らしい書なのです。

 ところが、膿が出てくるような線というのがあります。汚い、不潔な印象ですね。こういう書はやはり、どんなに上手に書いてあっても、私に言わせると駄目な書なのです。切ったら鮮血がほとばしるような感じの書が良い書であって、読むとか読めないというのは、その後の話なのです。

 そう考えると、展覧会などに行って、良い悪いがすぐに分かるようになります。一番悪いのは、ひからびて何も出てこないような印象のものです。このようなものは、やはり駄目だと思います。まずは、生き生きと水がしたたるような、鮮血がほとばしるような線で書いてある書がよい書だと私は思っています。

 書は、昔から「線の芸術である」といわれています。書は、形の芸術であるとは誰も言いません。形は真似することができるのですが、線はその人自身を表わすから真似できない。やはり書は線の芸術なのです。その線が、切ったときに水がほとばしるような線であることが良いということで、自宅にある書でも、床の間に掛かっているものでも、そのような目で見ていただきたいと思います。

 では書は絵とどのように違うのか。絵は純粋に色や形などで見ていきますが、書はそこに何という文字が書いてあるのかという要素が入ってきます。単に美しいだけでなくて、意味が加わるのです。

 ですから、私は書って素晴らしいと思うのです。ただ美しいだけだったら、世の中にいっぱいありますが、そこに自分の共感する素晴らしい言葉が書いてある。その意味が加わり、いよいよ立派になる。これが絵と書の違いだと思っています。

 そのように書をご覧いただくと、読める読めないは後回しにして、生き生きしていると感じます。例えば、良寛さんという人の字は、私が見てもほとんど読めません。しかし、開けて見るなり素晴らしいという感じがします。これはやはり線が素晴らしいからなのです。このように書というものをご覧いただけると良いと思います。

書への尊敬心が上達の秘訣

 書はどのようにしたら上達するのか。私が思うには、まずは、書は素晴らしいものだという尊敬の気持ちを持って、書を見る。そうすると、いまの自分の字は駄目だと思えて、これでは駄目だと一生懸命にやる。書は素晴らしいものだという尊敬の気持ちを持つ限り、一生上達していくものだと私は思います。反対に、書はこんなものかと思った途端、その人の腕は止まってしまうどころか、だんだん悪くなっていきます。非常にうまいと言われた人でも、年とともにだんだん駄目になってきます。たぶん途中で諦めて、書ってこんなもんだというように、悪く悟ってしまうのでしょう。このような人は、決して書はうまくなりません。ですから、書って素晴らしいと、まず敬意を持つことが大事なのです。私は書家ですから、書に対して本当に尊敬の気持ちを持っています。これは死ぬまで変わらないと思います。上達の秘訣はそれ一つだと思います。

 もう少し簡単に言えば、いつでもプラス思考を持つことです。これでは駄目だと思い、もう1枚、さらにもう1枚と書く人がうまくなっていきます。私たちは、一つの展覧会に100枚、200枚書くのは当たり前で、500枚、600枚と書くのが普通です。やはりもっといい書が書けるはずだと思い書いているのです。

 実際は、10枚目ぐらいのものを出品することが多いのですが、それでも、もっといい書ができるはずだと思い続けていくことが上達の秘訣だと私は信じています。

 ですから、皆さまも、たくさん書いていただきたいのです。いま書いている書字よりも、もっといいものができるはずだと思って書くのが良いと思います。そのためには、まず書に対して尊敬の気持ちがないといけないと思います。

書は日本人の心のふるさと

 「書は、日本人の心のふるさとである」。意味が分からないかもしれませんが、私は文字がなければ、人間の世界、社会というのがサルの世界とあまり変わらなかったのではないかと思います。言葉は太古からあったと思いますが、それを表記する文字が生まれ、その文字が人間の歴史を揺り動かしてきたのだと思います。

 日本にも早くから言葉はあったと思いますが、文字がなかった。従って、中国の文字、漢字を借りて日本語の表現をしていました。恐らく奈良時代ぐらいまでそうだったのです。『万葉集』を見ると、いい歌を書いているのですが、私たちが読むとさっぱり分かりません。その頃は漢字以外に表記する文字がなかったのです。

 その時代、「やま」という言葉はあるのですが字がありません。中国から伝わってきた「山(さん)」という字を、これが「山(やま)」に相当する字だと思い、「山」という字をそこに使い、「さん」という音と「やま」という音を日本人は両方を用いるようになります。そのように苦労し、日本語を表記する文字をつくり出したのです。その最たるものが仮名です。

 平仮名が生まれたのは、西暦950年ぐらいからです。仮名が生まれて完成するまで、たった50年か100年の間です。その間に『源氏物語』が生まれ、『枕草子』ができ、『蜻蛉日記』が完成します。名だたる平安文学を代表する傑作が、仮名の成立と同時に出来上がったのです。それまでは、すごくいい言葉があっても書くことができなかったのが、仮名のおかげにより、たちまち世界に冠たる文学が生まれるようになったのです。

 理由は簡単だと思います。自分の思いを表記する文字が生まれたからです。漢文では自分の言葉を表記できなかったが、平仮名では思った言葉をそのまま書けるようになったからです。仮名が生まれたときから、いっぺんに日本の文化は進んだのです。そうなると、中国で学ぶしか方法がなかったものが、学ばなくても良くなってくるのです。菅原道真は、わざわざ中国に行かなくても良いではないか、遣唐使なんか止めようと言い出したのです。それぐらい日本文化は独自に発達してきたのです。これらは、みんな文字のおかげ、書のおかげだと思います。従って、私は書というものは、日本人の心のふるさとのようなものだと思っています。

日本文化を代表する京の書

 つぎに「京の書は日本の書だった」というお話です。書に関心のある方は、『日本書道史』という本をお読みになると良いです。書道史に出てくる人物はほとんど全部、京都の人です。つまり、京都の書が日本の書だったのです。

 ところが、途中から変わります。それは明治維新からです。明治維新から東京に首都が移り、書の主流も東京に行ってしまいました。しかし、京都の書が駄目になったかというと、そうではありません。この点は、私は力を込めて申し上げたいと思っています。

 少し専門的な話になりますが、東京を中心に書道が盛んになり、書道界というのができます。文壇とか画壇のような、書壇という書の大きな組織が生まれます。これが東京中心に生まれるのですが、それが盛んになり、日本書道史の京都における明治以降がなくなってしまうのです。それにかわり、東京を中心に人間が集まったり、仲間割れしたりする、書壇史というものが生まれました。残念ながら、京都、関西にはそのようなものはありません。

 では、駄目なのかというと、そうではありません。私が確信を持って申し上げられるのは、京都大学に内藤湖南という東洋史学専門の偉い先生がいらっしゃいました。この先生が、「東京の書道は、なっていない。中国の北方民族の書いた字をありがたがって書いている。実になっていない。奈良の正倉院を含めて、唐の時代の漢民族の素晴らしい書が日本に伝わっていて、奈良から京都あたりにはたくさんそれが残っている。これを勉強するのが書の勉強であり、北方民族の字をありがたがって書くのは馬鹿だ」とおっしゃり、こういった内容を、明治39年に『朝日新聞』の1ページを使って主張しました。

 京都というところは、教養の高い地盤があり、仲間が集まって、気勢を上げたりするようなことはしません。一人一人に高い教養があり、その教養の高さ故に仲間づくりをしなかったのです。小さなサロンはたくさんありました。本当に教養の高い人たちが5人とか10人とか集まり、月に1回、詩をつくったり、書を書いたり、絵を描いたりする、小さなサロンです。ずっとそうしてきたものですから、書道史の本には京都のことは全然出てこない。しかし、大変中身の濃い、素晴らしい教養人たちが小さなサロンをつくって、ずっとやってきたのです。野蛮な字なんかありがたがって書いている東京とは違うのだと。そういう自負心を持って京都の人たちはやってきたのです。ですから、書道史の本には出ないですが、力は蓄えていたのです。

 日展は今年で104年目になりますが、書道が日展に参加したのが昭和23年です。日展の歴史100年に対して、書道はわずか60何年の歴史しかありません。日展に書が参加したとき、京都では仮名の一部の先生方がお出しになりましたが、漢字の方はいま言った内藤湖南先生みたいな立派な先生の影響を受けた人がたくさんいましたから、東京で始まった日展みたいなところに誰が出すかといって出しませんでした。私も日展に出そうと思って、書き始めたら、おまえみたいな腰抜けはもう来るな。大学も辞めろ。あしたから来るな。俺のところにも来るなと先生から言われました。それぐらいプライドを持っておられたのです。そういうプライドがあるので、素晴らしい古典というものを直接勉強しろ、自分の目を信じろというのが教えでした。私はいまは日展に出していますから、あまり偉そうなことは言えないのですが、27歳まで、私は日展には出さないと言ってやってきました。これが京都の普通の地盤だったのです。

 ところがあることがきっかけで、とある先生のところへ連れていかれました。いま考えると、下手な字だったのですが、内心自信満々でした。その先生が私の書をご覧になり、「おまえの感じが出ている」、これからは自分でやれと。自分でやれと言ってくださった先生も偉いですね。その年、日展に初めて出したら通ったのです。それまでは、日展なんか出すものか、と言っていたのが、次の年から出すようになり、こんにちに至りました。しかし、日展なんか出さないと言って頑張っていた10年間ぐらいが私には大いに力になったのです。京都の人はみんなそうなのです。

 いま、藝術院会員という方が、書道に3人いらっしゃいます。そのうちの二人が京都にいらっしゃいます。それから、西日本で最大の書道団体の日本書芸院というのがあります。全国組織ですが、西日本を中心にして2万人近くが所属しております。大阪が本拠地で、代々、大阪で理事長が生まれていたのですが、現在は私がそれを仰せつかっております。日本書芸院は、いまは理事長も副理事長の二人も、そのように横を向いていた京都の人間なのです。

 京の書は日本の書だったということが、千年間続いたのですが、この100年間、東京を中心に日本の書は変わりました。京都からは消えてしまったのですが、いままた見事に復活しています。私もその端くれを担っているのですが、たった3人の藝術院会員のうち二人が京都にいらっしゃる、これだけでも京都というのは見事によみがえってきた証拠であると思います。

名筆に出会えるまち京都

 京都というところは、道を歩いても素晴らしいものがあるし、骨董屋さんに寄っても、安い値段でいいものが沢山あります。

 東京は高ければいいというような風潮があり、何でも売れたりします。京都の人はさすがに骨董屋さんでも、素晴らしいと思うまではなかなか手を出さない。やはり鑑賞眼が高いからだと私は思います。

 鑑賞眼の高さというのが、この世界では大事だと思っています。腕と目と両方のうち、目が先なのです。目が先行して腕が付いていく。従って、どうしても目が高くないといけない。京都の方は大変目が高い。従って、その高い目で書をお書きになったら、必ずや素晴らしい書となる。まず鑑賞眼というものが一番大事です。専門家同士の話のときは、あの人はいい腕をしているとは、普通は言わないです。いい目をしているというのです。あの人はいい目をしているというのは、いい作品を書くという意味です。いかに目が大事かということです。

 今日、皆さんにお配りした資料の中に、『京都新聞』に載せていただいた「日本人の忘れもの」という記事が入っております。そのなかで私が申し上げたかったのは、やはり手書きの文字の大切さです。いまは機械化が進んでしまって、まるで手書きのものは駄目で信用ができないという風潮があります。しかし実はそうではない。手書きこそ素晴らしいということを申し上げたく、それが「日本人の忘れもの」ではないかと考えました。西欧人は大事な文章は署名を自分で書きます。日本ではそれを活字でしたり、はんこを押したりしてやっています。まったくこれはおかしいことで、手書きの文字こそ大事であるということを申し上げたいのです。

 それでは、京都のまちを歩いたら、どんなに素晴らしい書に出会えるか、スクリーンで見ていただきたいと思います。



[スクリーンに映像を映しながら説明]

 8月16日の京都五山の送り火です。「大」という字、これがいいですね。雄大です。こそこそしていないです。誰がこういうものをつくり出したのか分からないけれど、こういう行事をしようと提唱された方の知恵に感服します。昔はビルなんかなかったから、どこからでも見られたと思います。一番美しかったのは御所からの眺めだと思いますが、いい字です。そして、送り火ですが、やはりご先祖さまの霊を送る行事としては、最高のものだと思います。本当に素晴らしい景色です。

 つぎは、お祭りのほうではなく、「八坂神社」という字です。これが実に堂々としているのです。普段は見忘れてしまうのですが、石段下のところにある字、書法にかなった、堂々とした文字です。一度、見直していただきたいと思います。

 つぎは顔見世の看板です。この字は、皆さんご存じだと思いますが、勘亭流という字です。いつごろからこのような字が始まったかというと、江戸時代に中村座の手代をしていた岡崎勘亭という人が、こういう字を書いたのです。それがまた舞台にぴったりなのです。実によく似合う姿をしています。このような字の源というのは、藤原行成という平安時代の書の名人がいたのですが、その文字がだんだん変形してきて、こういう使い方になったのです。

 つぎは、舞妓さんを見ていただくのではなく、「祇園新地歌舞練場」の屋根の上の字や横の柱の文字です。私たち書をやっている人間は、これを見て、これは顔真卿(がんしんけい)の書だなと気付くと思います。唐の時代に顔真卿という大変な偉い人がいて、その人の筆の使い方です。実は、日本も明治になって教科書をつくっています。国定教科書の最初のお手本というのは顔真卿流の字だったのです。端々がドングリみたいにずんぐりした感じ、どっしりとした感じ。これが明治、大正にかけて、国定教科書のお手本だったのです。また、この祇園の歌舞練場に門があります。門を入ってすぐ左側に石碑があります。この石碑がまた素晴らしい石碑です。見過ごされている方がいたら、見直しをしていただきたいです。文章も素晴らしいし、書いてある文字が実に素晴らしい字です。当時、一級の人が書かれたと思います。ご覧いただきたいと思います。

 つぎは「羅城門」です。この字も書法にかない堂々としており、長い鑑賞に堪える字です。いまはいい加減な字が多すぎますから、あえてこういうしっかりと、どっしりとした字、長い歴史の鑑賞に堪えるこういうものがあるということが大変うれしいです。

 祇園へ遊びに行かれた方は見掛けると思いますが、四条通のすぐ北に、白川という細い川が流れています。その白川通に東京の吉井勇という歌人、京都に来ていつも祇園に入り浸りだった人が、このような歌碑をつくりました。「かにかくに 祇園はこひし 寝るときも 枕の下を 水の流るる」と書いてあります。ちょうどいい場所の、サクラの木陰みたいなところにこの碑が立っていて、この川の向かい側に、お茶屋さんがあります。そこがまた白川に張り出して出ているのです。そこに寝そべると、枕の下に水の流るると、ちょうどうまくできているのです。あそこを通ったら、よく眺めていただきたいと思います。吉井勇という方の書も非常に情緒纏綿とした良い字です。

 この会場の裏に亀山公園がありますが、そこに中国の周恩来元首相が書いた詩碑があります。この周恩来の詩碑を隔てた反対側に、『百人一首』の歌が、100首あるわけですが、その中の70首ぐらいの歌碑があります。私も三つ書かせていただきました。そのうちの二つが、周恩来の詩碑のすぐ近くにあります。周恩来が若いとき、1919年ですからずいぶん昔ですが、京都に来られた日に、雨に煙った嵐山を見て詠じた詩、『雨中嵐山』がそこに書かれています。形もいいですし、字が落ち着いています。また詩情があります。

 つぎに、これは南禅寺の湯豆腐屋さんです。山門のところを左に曲がってぶつかったところを、また右に折れて行ったところに湯豆腐屋さんがあって、人知れずというか、いい感じの「名物湯豆腐」とあります。上手な字というのではないですが、何とも野趣があって、詩情、詩心が満ちているのです。ああ、入ってみたいなという感じの看板です。看板はこうでないといけないなと思います。

 それに匹敵するのが、つぎの道標です。道標は、京都にいっぱいあります。いい道標がたくさんあるのですが、一番好きなのは嵯峨野から祇王寺、愛宕道の方へ行く道標です。右側が「右あたごみち」と書いてある。「ち」という字が草むらの中に埋まってしまって見えないですが、左側も上の方に「往生院」と書いて、「ぎわうじ」と書いてあります。「王」という字は「わ」と読みます。こちらも草むらの中に3字が埋まっているのですが、何とおおらかで、世の中の憂さをみんな忘れてしまいそうな感じです。嵯峨野を歩きながら、この道標に出合うと、本当にほっとしますし、何とも昔の人のおおらかな息づかいが感じられて、いつまで眺めても飽きない素晴らしい字です。

 つぎに、富岡鉄斎の書です。京都のまちを歩くと、富岡鉄斎の書というのが至る所で見られます。私は本当にありがたいと思うのは、いまでは看板というと看板屋さんが書きますが、当時は一級の芸術家、文化人が喜んで看板を書いていたのです。鉄斎の書を見たかったら、まちを歩いたら幾つでも見られます。どれも素晴らしいです。それぞれ書法が少しずつ違うのも、うれしいですね。

 つぎは北大路魯山人です。ご覧になった人があると思います。「柚味噌」という文字と、「撫松」という文字です。この「柚味噌」という文字が素晴らしいです。この人は大正の終わりごろに、東京に星岡茶寮というのをつくって、料理もよく研究したけれども、その料理にふさわしい焼き物を、その都度つくったという人です。書もまた若いときから、書家になろうとしていたぐらいですから、いっぱい残っています。料理屋に言わせると、魯山人は、料理は駄目だけど書がいい。陶芸家に言わせると、陶器は駄目だけど書とか食に対する研究は素晴らしい。書家に言わせると、書は駄目だけど焼き物はいいと(笑)。結局専門家に言わせると、全て駄目になってしまうのですが、こういう方を文人趣味というか、好事家と言ったのですね。文人趣味とは、素人が、俺でもできるというのが文人主義、文人精神というものです。そういう精神が強い方だったのです。ですから、専門家にならないで、焼き物でも書でも、素人の精神を貫いたのです。それがまたいいです。専門家というのは、どうしても細かい技巧にとらわれますから、そういうところをお構いなしにやることが本当にすごいと感じます。

 このように、一級の文化人が平気で、喜んで看板を書いたというのが、京都のすごいところだと思います。

 つぎは紫式部の墓です。かなり小さいものです。あまり知られていないのですが、北大路の堀川を少し下がったところにあります。私は昔、その辺りに下宿していたものですから、毎日見にいっていました。小さなお墓ですが、奥ゆかしいです。

京都に居住していた平安の三筆、三蹟

 平安時代に三筆という人がいました。弘法大師(空海)、橘逸勢、嵯峨天皇の3人です。その三筆をご紹介し、皆が京都に住んでいたということを通して、京都創生のお話になればと考えています。

 いま映っているのは三筆の一人、空海の『風信帖』と言います。一緒に遣唐使として行った、先輩である伝教大師最澄に宛てた手紙です。最澄の方が位も上だったし、年齢も上だったのですが、その最澄に出した手紙の文章です。「風信雲書、天より翔臨(しょうりん)す。これを披(ひら)き、これを閲(けみ)するに、雲務を掲ぐるがごとし」という書き出しです。あなたのように尊い方から手紙をいただきまして、あなたのお手紙は天から舞い降りるようです。そして、そのお手紙を開いたら、雲、霧に覆われたような、それほど素晴らしい、ありがたいものですという内容です。このように、空海という人は書が上手いだけでなく、文章も素晴らしかったのです。中国で空海が認められたのは、最初は書ではなく文章の方なのです。これを見ると、「風信雲書 自天翔臨 披之閲之如掲」と4字、4字、6字になっています。四六駢儷(べんれい)文という形の文章です。空海はこれを中国にも行かないのに、日本にいる間にしっかりと会得したのです。四六駢儷文という、中国の六朝時代にはやった文体を軽くこなし、中国の赤岸鎮(せきがんちん)という海岸に漂流して、本当なら捕えられ、罰せられるところを、このような文章を書いて渡したため、これはすごいと認められ、ちゃんと西安まで連れていってもらったのです。

 空海には逸話がいっぱい残っています。杖をついたところから泉が湧き出たなど、それほど超人的な方だったのです。この文字を見ても、人を縛り付けるような力を持っています。日本人で、こんなに人を縛り付けるような力を持った人は、ほかにいないです。やはり弘法大師をもって、書聖というのは当たっていると思います。うまい人はいますが、こんなにすごい字を書いた人はいません。私も大変尊敬しているのですが、空海の書で最も素晴らしいものを知っています。『灌頂記』といって、お坊さんが講習を受けにいって、誰がどんな守り本尊になったかというメモのようなものが、神護寺という京都のお寺にあります。これが大変素晴らしいです。私は明け暮れ、それを勉強しています。

 話が長くなってしまうのですが、空海は王羲之という人を学んだという話なのですが、私はそうではないと思っています。王羲之の字は、姿が美しいから真似すると弱くなってくるのです。だんだんひ弱になっていくのです。これでは駄目だということに気付いた人だと思います。他に気付いた人の中に、中国に先ほど顔真卿の話をしましたが、それよりも少し前に、李北海という人がいます。この人は、知る人ぞ知る人物ですが、私はこの人が王羲之の書を真似ると弱くなっていく、強さを加える必要があるということに初めて気付いた人だと思います。空海は、その人を勉強したのだと私は考えています。

 その証拠として、空海は嵯峨天皇に、当時の中国の名人の書ということで、屏風を献上しますが、それが李北海の書なのです。この人に着眼したのが、空海が日本で書聖といわれるゆえんだと私は信じています。どこの本にも書いていませんが、美しい姿に強さを加え、不死鳥のように王羲之をよみがえらせた、そういうすごい人だと思うのです。やはり空海が日本では一番です。

 三筆のもう一人、橘逸勢(たちばなのはやなり)は空海と同じ船で遣唐使として渡ります。中国に渡り、最初に書の上手さを認められたのは、橘逸勢だったのです。いまスクリーンに映っている書は、実は橘逸勢の本物かどうか分からないものです。この人は、罪を得て流され、遠江というところで死にます。罪を得た人の書を持っていると災いがかかるということで、みんな捨ててしまうのです。そのため残るということが本来ないのです。 同じように、菅原道真の書というものも、私は見たことがありません。菅原道真も書の名人だったのですが、災いが降りかかるということで、全部捨てられてしまったのです。ですから、これは本当に逸勢の書かどうか分かりませんが、実に上手く書かれています。技巧的で、素晴らしいです。このように技巧的なものが当時の中国で流行っていたのですね。これは王羲之流ではありません。こういうのを中国では雑体書といいますが、その雑体書というのが、唐の時代にはやっていたのです。それをいち早く取り入れたということです。

 つぎに映っている書は、橘逸勢の『伊都内親王願文』というものです。橘逸勢はかわいそうな人です。素晴らしい才能を持っていたために、平安の初期、平城天皇の第一皇子だった阿保親王という人の家庭教師だったのですが、家庭教師をしたばかりにそこで謀反の疑いをかけられ、謀反の張本人だということで、位を人間以下の非人に落とされ流刑に遭うのです。平安の三筆の一人、橘逸勢という人は非常に不運な人生を送った人なのです。

 平安の三筆の最後の一人が嵯峨天皇です。映っているのは、李キョウ雑詠というのですが、この字を見るなり、これは嵯峨天皇の書とは違うというのが、書を勉強した人なら誰でも思います。当時中国の、初唐の三大家といわれた欧陽詢(おうようじゅん)が行書で書くと、このような姿になります。つまり恐らくこれは中国人の書です。実にしっかりとした形で素晴らしい字です。しかし、嵯峨天皇が書かれたということで、信じておきましょう。とにかく素晴らしい書です。これが平安の三筆といわれた方のものです。

 三筆というのは、遣唐使が中国へ行って、そのままの勉強をしてきた人たちの字なのです。中国人が書いたといっても分からないぐらい中国風です。これが三蹟(小野道風、藤原佐理、藤原行成)になると、すっかり日本流になっています。

 三蹟の一人、小野道風の『継色紙』です。私は仮名では、これが最高だと思います。実に素晴らしいです。「あまつかぜ くものかよひじ ふきとじよ おとめのすがた しばしとどめん」。五節の舞の様子を読んだのでしょうか。五節の舞というのは、皇后さまを決める儀式です。五節の舞をきれいに舞う。どの人を皇后にしようかという、皇后選びの儀式のときに詠んだのです。しかし、これは小野道風の字かというと、私は違うと思います。伝小野道風とか、「伝」というのが付いているのは、だいたいは嘘という意味です。本当だったら「伝」とは書かないのです。実は、小野道風という人は、まだ仮名がそんなに美しくない時代、ひょっとしたら、仮名を書かなかったかもしれないぐらいの時代の人です。仮名はあるのはありましたが、美しくはなかったのです。

 仮名は、1000年から1030年ぐらいまでに美しく完成したと思うのですが、小野道風は、調べてみたら、894年に生まれて966年に亡くなっています。その時代にこんな美しい仮名はできていません。漢字の草書体をやっと仮名に直した程度の字で、これほど美しい字は11世紀、1000年を迎えないと完成しないです。ですから、小野道風ではありませんが、こんなにも美しい仮名があったということです。

 次に、伝紀貫之、『寸松庵色紙』です。『寸松庵色紙』というのも仮名の王様ですね。これを「伝」とするのは、嘘だと思ってください。紀貫之という人は、『古今和歌集』を撰集した人で有名ですが、生まれを調べてみると、870年で、ちょうど先ほどの小野道風とよく似た年齢なのです。945年に亡くなります。945年にこんな美しい仮名はまだありません。 ただ、紀貫之という人は、仮名で『土佐日記』という日記を書いています。「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり」といって、紀貫之が女風に仮名で日記を書いた。藤原定家がその日記を真似た字をご覧になったら分かりますが、実に不細工な字です。それは当たり前で、仮名の美というものがまだなかったからです。読めればいいという程度のものです。ですから、これが紀貫之というのは間違いですが、とにかくこんなに美しい字があったのです。

 平安時代の三筆・三蹟、日本の書を代表するものをご紹介しましたが、実は私が書かせてもらった看板も京都には幾つかあります。四条通を南側から東へ入っていくと、「舞扇堂」さんがあります。扇屋さんです。そこの字を、篆書体で書かせていただきました。木目が大変美しいです。自分でこの店の前を通ると恥ずかしいものですから、さっと通ります。私は行書が専門なのですが、篆書とか隷書とかも時に応じて書くのです。産寧坂に「桜庭」というお土産屋さんの店があります。これも書かせていただき、自分でも気に入っています。とてもいいお店です。その他にも色々と書かせていただいております。  以上、とりとめのない話ばかりで恐縮ですが、京都が素晴らしいまちになり、書は日本人の心のふるさとですから、そこにある書がまた良い書になりますよう、また見るだけではなくて、是非一緒にやりましょうということを申し上げて、今日は失礼致します。

(講演終了)


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