趣旨説明
「国家戦略としての京都創生」について
京都市総合企画局政策企画室 京都創生推進部長
大田 泰介

 本日は第12回の京都創生連続セミナーを、このように開催いたしましたところ、たくさんのみなさまにご参加いただきまして、誠にありがとうございます。

 このセミナーは、私ども京都市のほか、京都府、京都商工会議所、京都新聞社、事務局を務めていただいております、京都文化交流コンベンションビューローといった、約500にのぼる、多彩な団体、企業、個人の方にご参画いただいております、京都創生推進フォーラムが中心となって開催しているものです。

 京都には山紫水明と呼ばれる美しい自然や落ち着いた都市景観があります。さらに、このような風土に受け継がれ、磨き上げられてきた伝統文化がたくさんありますが、こういったものを守り、育て、さらに磨きをかけ、国内外のみなさまに発信していくということが、京都創生の取組です。その実現には、市民のみなさまのお力もお借りし、また京都市も全力で取組を進めていますが、国家的見地から取組を進めていく必要があるものについては、この京都創生をわが国の国家戦略と位置づけ、必要となる制度的、財政的な支援を行うことを国に求めています。

 これまで京都市では、景観、文化、観光という三つの分野を中心に取組を進めており、京都が持つ歴史的な景観、そして伝統文化といったものを守り育てるために、他都市に先駆けた取組を進めてきました。

 例えば、美しい景観を守るために、市民のみなさまのご協力をいただきまして、新景観政策を策定し、自ら景観を守るための取組を推進してきました。

 こういった取組を進めているのですが、いろいろな問題もあります。例えば京都らしい景観を考えますと、まずそれをかたちづくるものとして京町家があります。この伝統的な木造建造物である京町家が、市内の中心部、具体的には、上京、中京、下京、それから東山の4区に、どれぐらい残っているかという調査を京都市で行っていますが、今から11年前の平成10年度に調査したときには、2万8千軒ありましたが、その後の調査では、だいたい毎年2パーセントずつなくなっていると推計されています。このように京町家は、なかなか維持していくのが難しく、京都市としても、独自の条例や京町家の補修のために助成を行っているところです。

 また、京町家の問題で、もう一つ大きいのが、市民のみなさまのご努力や、京都市の取組だけでは解決できない法律上の規制です。

 京町家を含め、現在、家を建てるときには、「建築基準法」という法律により、さまざまな基準が設けられています。京町家が建てられたときには、まだ「建築基準法」がなかった時代で、この基準をそのまま適用し、建て直したり、改築したりすると、京町家らしい建て方ができません。

 つまり、昔の建物ですので、必ずしも今の基準に合うわけではないのです。そういった状況を改善するために、例えば今の「建築基準法」を一律に、すべての建物に適用するのではなく、京町家のような特徴のある建物に対しては、それに応じた適用の仕方を国に求めているところであります。

 そのほか、文化に関して言いますと、京都市には、世界文化遺産が14箇所、また、世界遺産でなくても、国宝は全国の20パーセント、重要文化財は全国の15パーセントにのぼるなど、たくさんの文化財があります。

 文化財は、昔のことを知るために、保存、修繕していかなくてはなりませんが、これを京都市だけの力で行うと、たいへんな費用がかかります。

 また、伝統文化、伝統芸能、伝統産業などは、実際には後継者がなかなかいらっしゃらないという現状があります。

 こういったものを守っていくために、京都市でも一生懸命取り組んでいますが、一つの自治体だけが取り組むのではなく、国にも真剣に考えてもらわなければならないと思っています。

 国内外の観光客のみなさまが、たくさん京都にお見えになります。京都の持っている景観や自然、文化などを味わい、享受されているわけですが、そういう意味では、京都は京都市民だけのものではありませんし、京都だけで守れるものでもありません。

 したがって、国、あるいは京都以外におられる京都ファンの方々に、もっとこの京都の現状をご理解いただき、守るために力を貸してほしいと訴えていくことが、「国家戦略としての京都創生」という、私どもの取組であります。

 そうは言っても、なかなか国も財政が厳しく、単に守ってほしいと言って、それがやすやすと通るような時代ではありませんので、京都に住む私ども京都市民はもちろんのこと、京都にお越しになる国内外の方々に、日本に京都があってよかった、そしてまた、世界に京都があってよかった、そう思っていただけるように、市民のみなさまと手を携えまして、さらに取組を進めてまいりたいと思っております。

 本日、ここにお集まりのみなさまにおかれましても、今回のセミナーを契機に、京都の新たな魅力に気づいていただき、また、それを身近な人々に広めていただくとともに、「国家戦略としての京都創生」の取組についてもお伝えいただければ幸いです。

 みなさま方の一層のご支援と、またご理解、ご協力をお願い申し上げまして、開催にあたりましてひとことごあいさつと、京都市からの説明とさせていただきます。





講演と演奏
琵琶楽の魅力―平家琵琶(平曲)、薩摩琵琶二つの伝承を中心に
日本琵琶楽協会 理事長
須田 誠舟 氏

琵琶の種類と歴史

 私が初めて琵琶を手にしたのは、今から四十数年前の学生の頃です。私の父は詩吟が趣味で毎日うなっているのを幼いころから聴いて育ち、父に連れられて琵琶会に足を運んで以来、その音色に魅せられ続けています。

 日本で初めて琵琶の音が鳴らされたのは奈良時代です。中国より伝わった「五弦琵琶」が、日本に現存する最古の琵琶として正倉院に保管されています。五弦の琵琶は平安時代ごろまでは奏者がいたということですが、その後は伝承が途絶えてしまい、現在、演奏できる人は誰もいません。そのため、当時、琵琶がどのように演奏されていたかははっきりわかりませんが、研究によって、現在とは異なり、歌を伴わない、楽器を単独で演奏するかたちであったようです。

 正倉院には、当時書かれたと思われる、『番假崇』(ばんかそう)という譜面も残されており、四弦の琵琶の演奏により、当時の人々が聴いたであろう音の響きを知ることができます。

 時を同じくして、中国大陸から九州に「盲僧琵琶」も伝来しています。目の不自由な僧侶たちに広まり、『地神経』や『観音経』のお経を唱えるときの伴奏楽器として使われた、非常に小さい琵琶です。

京都で始まり広まった平家琵琶

 その後、日本独自に四弦の「楽琵琶」がつくられました。これは今でも雅楽演奏の際に、よく見られます。

 「楽琵琶」は非常に大きくて重いため、持ち運びには適さない楽器でした。その「楽琵琶」を小さくコンパクトにまとめ、背中にも背負いやすい形に変えたのが「平家琵琶」です。『平家物語』は文字で書かれたものではなく、琵琶法師が諸国を語り歩いたことで日本全国に広まった文学なのですが、その時に琵琶法師が伴奏のために用いた楽器が「平家琵琶」です。

 『徒然草』によると、「平家琵琶」は鎌倉時代の初め頃に、生仏という名の目の不自由な音楽家によって起こったとされており、以来八百年続く伝統芸能として日本の音楽を支えてきました。

 「平家琵琶」が広まる以前の日本の芸能は、歌の叙情とメロディーの曲想が必ずしもリンクしていなかったのですが、「平家琵琶」によって、しっとりしたところは陰音階で、戦場の様子を語る時には陽音階でといった色分けがなされるようになり、それが日本芸能のルーツと呼ばれる由縁です。

 そうは言っても、まだまだ鎌倉時代の芸能を受け継ぐ部分は多くあります。最小限度の音のみを使って、語りの音階を誘導するために琵琶をつま弾くような奏法が、「平家琵琶」の大きな特徴です。

 盲目の琵琶法師に受け継がれた「平家琵琶」は、江戸時代になると、京都を中心とした風流な文化人にたしなまれるようになり、楽譜が整理されました。

 私は「平家琵琶」を金田一春彦先生に教わりました。金田一先生というと、日本語の方言研究の第一人者として知られていますが、幼い頃は国語より音楽に興味を持たれていたほど、歌がお好きであったそうです。金田一先生は過去の日本語方言を知るために、「平家琵琶」の楽曲を研究した際、奏者の後継者不足を知り、「薩摩琵琶」奏者であった私に、「平家琵琶」を勧めてくださったのです。

 京都市に関係のある「平家琵琶」の名曲の一つに『大原御幸』があります。これは『平家物語』「灌頂巻」を語ったもので、平氏滅亡後に大原に隠棲された建礼門院を、後白河上皇が訪問した時の話で、大原の美しくもはかない情景と、建礼門院の寂しい心情が聴く人の胸を打つ作品です。



平家琵琶の演奏 演目:『大原御幸(おはらごこう)』
平家一門滅亡後のその身を、大原の寂光院に隠棲して、仏道修行に明け暮れる建礼門院のもとに、後白河法皇が御幸されました。昔とはうって変わった女院の、粗末な庵室生活をご覧になられ、いたくあわれを催されたのでした。

薩摩の士風に影響を与えた薩摩琵琶

 「薩摩琵琶」は「盲僧琵琶」から派生しました。力の弱い人でも扱いやすかった「盲僧琵琶」を、戦国時代の鹿児島で大きく改良、同時に「ばち」も大型化し、力の強い武士が扱う楽器として変化させ、武家の琵琶という、非常に珍しい芸能として広まりました。

 薩摩藩で「中興の祖」といわれた島津日新公忠良が、戦国時代の後半、戦乱が平定し、青年武士の気が緩んできたことを案じ、教育によって引き締めなければならないと、琵琶を取り入れたのが始まりだとされ、当時の同藩武士教育の二本柱は、示現流の剣術と「薩摩琵琶」だと語られるほどにまで発展しました。

 仏教の教え等を取り入れ、人生をいかに生きるべきかを説いた歌詞を元気よくも、きまじめに歌いながら、見よう見まねで力強く琵琶を演奏し、質実剛健の気風を養った姿が、薩摩のあちらこちらで見られたようです。

 「薩摩琵琶」と京都とのつながりも非常に深いものがあります。現在の京都市上京区、同志社大学のあたりは当時、二本松と呼ばれ、薩摩屋敷があったそうです。そこで慶応二年に薩長同盟の密約ができたのですが、そのときに京都守護職や幕府の目を盗むために、琵琶会と称して、しばしば倒幕の武士たちが集まったと伝えられています。

 当時の有名な琵琶奏者の児玉天南が、薩摩屋敷で演奏した曲が『小敦盛』です。これも『大原御幸』と同じ、『平家物語』の世界ですが、「平家琵琶」の演奏とは趣が違い、元気よく、大きな声で歌い上げます。

 『小敦盛』は、平家の若き公達・平敦盛が、源平の戦いで、剛毅で知られる源氏の武将、熊谷直実に組み伏せられ非業の最期を遂げるところを、臨場感たっぷりに語ったもので、戦場の荒々しさと、若く美しい敦盛を前にした直実の心の迷いと、討ち取られる敦盛の無常観のコントラストが、琵琶の音色と力強い語りで見事に再現され、聴く人の涙を誘う大作です。

 フランス文学者の辻邦生先生の父としても知られ、「薩摩琵琶」の名手として名高い辻靖剛先生は、私の「薩摩琵琶」の師匠ですが、先生はとにかく大きな声で、元気よく歌うようにと教えてくださると同時に、「親孝行をせよ」と、けいこごとにおっしゃいました。当時まだ学生だった私は、毎回同じセリフを聞くたびに、うるさく感じたものですが、時を経て私が師匠の立場になると、それはまさに、薩摩武士の志そのものであったことを知り、気がつけば、「薩摩琵琶」を習う生徒さんたちに、同じことを言っている自分がいるのです。琵琶の奏法だけでなく、当時の人々の心意気をも伝承することが大切なことだと感じています。

 「盲僧琵琶」は、明治時代中期に「薩摩琵琶」を学んだものにより「筑前琵琶」として改良され、福岡地方に広まりました。「筑前琵琶」は比較的小柄で、やさしく、穏やかな音色を特徴としているため、女性の奏者も数多くいます。かつての宝塚トップスターで、現在は琵琶奏者として活躍される上原まりさんが演奏している「筑前琵琶」をお聴きになったことがある方も、いらっしゃることでしょう。

 このように日本には大きく分けると五種類ほどの琵琶があり、主に九州や関西を中心に、独自の広まりを見せてきました。

薩摩琵琶の演奏 演目:『小敦盛(こあつもり)』
一の谷の合戦でくりひろげられた、平家の公達平敦盛と源氏の武将熊谷直実の一騎打ちはよく知られています。直実は敦盛を討って「弓矢とる身」の悲哀を感じ、新黒谷に引きこもって出家を遂げたといわれています。

楽器制作上の課題

 京都市は「国家戦略としての京都創生」を目指して、市民レベルでの取組をされていると伺いました。私どもの琵琶は今、存続の危機にさらされていると言っても過言ではありません。琵琶楽は、楽器がなくては演奏が成立しないのですが、現在、琵琶の製作、修理に携わっている琵琶職人は、国内に数えるほどしかいません。

 また、「薩摩琵琶」は三宅島あたりのクワの木を材料とするのがもっとも適しているため、琵琶職人自らが島に二年に一度赴き、切った木を十年ほど乾かした後でないと製作そのものにとりかかることができないという、かなりの時間を要することに加え、三宅島では2000年の噴火でクワの木がほぼ全滅し、材料の確保すら難しい状況となっています。現在は三宅島の南にある御蔵島という小さな島からクワを切り出してつくっているようですが、それも容易なことではありません。

 そのような苦境のなかでも、うれしい出来事がありました。琵琶職人の地道な努力が実を結び、日本で唯一、すべて手づくりで琵琶をつくっておられる、東京・港区の四代目石田不識さんが、2007年に選定保存技術者として、人間国宝の指定を受けられました。これもいわば、国家戦略で日本の伝統芸能を守った例の一つと言えるでしょう。国家がわれわれの技術を認めてくれたことが、日本の伝統芸能の今後の大きな励みとなったことは間違いありません。

 石田さんは人間国宝に指定されたとき、宮内庁主催の園遊会に招かれた際、陛下とあるお約束をしたそうです。それは正倉院に伝わる「五弦琵琶」を当時の寸法図を元に忠実に製作し、宮内庁の楽部に納めるということで、すでに作業を開始されておられます。「五弦琵琶」が復活した際には、私が奏でさせてもらえるかもしれませんので、気を引き締め、精進する気持ちを新たにしているところです。

琵琶楽の魅力

 今はITの時代と称され、あらゆることの速さがもてはやされておりますが、伝統芸能の世界は、じっくりとけいこを重ねて、ようやく一つのかたちが見えてきます。特に琵琶の習得には、楽器演奏と歌いの両方を並行して学ばなければならないため、興味を持っていただいて、けいこを始められても、なかなか続かない人が多いのですが、時間をかけて琵琶に親しみ、難しいことを克服することこそが、琵琶の大きな魅力であることを、私は門下生たちに教え続けています。

 時間をかけるということでは、琵琶の語り口の特徴の一つとして、語尾やフレーズを、抑揚をつけながら長めに伸ばす部分が数多くみられますが、それも伝統芸能の奥深さにつながっています。伸ばされた声の経過のなかに、登場人物の心理状態、風景描写など、物語の叙情をたくみに表現することで、曲の風情が聴き手にも伝わり、琵琶楽の味わいをよりいっそう増しています。

 今、皆さまが琵琶を聴く機会はそう多くないかもしれませんが、聴かれた際には、琵琶の音色と語り口に耳を傾け、現代の気ぜわしさから一時解放され、昔の情景に思いをはせていただければ幸いです。

 私は何度も京都を訪れていますが、そのたびに、このまちの素晴らしさを実感します。歴史、伝統に裏打ちされた美しいまちなみを見ると、古くからある文化や山紫水明の景観をしっかり守っていこうという、市民の皆さんの強い意志を感じるからです。現代社会は、何かというと変革、変化が必要だとされますが、時代は変わっても守るべきものはきちんと守らなくてはいけないことを、伝統芸能を受け継ぐものとして、あらためて胸に刻みつけながら、今日も京都のまちにお邪魔しました。


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