京都創生推進フォーラム
シンポジウム「京都創生推進フォーラム」について

日 時 平成30年7月27日(金)13:30〜16:00
会 場 ロームシアター京都「サウスホール」


オープニング 「長唄三味線組曲」
杵屋 勝七郎、杵屋 寿哉



あいさつ 立石 義雄 (京都創生推進フォーラム代表、京都商工会議所会頭)
門川 大作 (京都市長) 


パネルディスカッション 「京都のまちとアートの未来」
 



パネリスト 建畠 晢 氏
(美術評論家・詩人)
  並木 誠士 氏
(京都工芸繊維大学大学院教授・同美術工芸資料館館長)
  長谷川 祐子 氏
(東京藝術大学大学院教授・東京都現代美術館参事)
  やなぎ みわ 氏
(美術作家・舞台演出家)
コーディネーター
宗田 好史 氏
(京都府立大学副学長)



パネルディスカッション  「京都のまちとアートの未来」




宗田氏

 今年のテーマに「京都のまちとアートの未来」を選んだ理由は、昨年、二条城等を会場に、アジア回廊現代美術展が開催されたことにあります。

 パネリストの建畠先生はアジア回廊の監修をされました。やなぎ先生は、京都らしい場所というのを選んで「日輪の翼」という劇場をされています。長谷川先生は海外で活躍する著名なキュレーターです。並木先生は美術史家です。



建畠氏

 京都は言うまでもなく歴史的な重厚な文化的な蓄積で知られる古都ですが、それと同時に前衛的なアートの運動が次々起きてくるまちでもあります。新しいアートの息吹と重厚な歴史的な文化遺産というものは、京都の両極にあるといえるのですが、それをうまく重ねられないかということでアジア回廊の企画が出発しました。京都市美術館が工事中だったため、無理と思いながら二条城に相談に行ったら、「何をやってもいい」と。「ほんと?」って感じだったのですが…本当に自由にやらせていただきました。

 美術館というのは非常に無機的で中立的で個性のない空間の中で、個性的な作品を展示、というのが一般的なんですが、今回は全く逆でした。歴史的な物語に満たされた非常にオーラのある空間の中に、現代美術が介していくスリリングな実験となり、京都の未来とアートの未来が重なるような事例に期せずしてなりました。

 展覧会はお祭りでもなければ、見世物でもない。でも、この展覧会に限っては「祝祭性」を最大限に引き出そうということで、「アジア回廊」は大きな可能性を感じさせる非常に面白い実験になったと思います。



やなぎ氏

 大きな捺染(なっせん)の工場跡地で、今は阪神高速道路の出口につながる場所で駐車場になっているところが私のアジア回廊の会場だったのですが、そこで中上 健次原作の「日輪の翼」の野外演劇公演をやりました。

 私は台湾で特注したステージトレーラーで移動式の野外劇座長…というか、作演出・美術をやるという不思議な存在です。そして、野外劇をやりながら現代美術の方も手掛けています。野外劇と現代美術というのは、「集団」と「個人」、「祝祭」と「美術作品」というように対極をなすものと思われますが、私の中では常に共存しているような感じです。

 京都は非常に歴史が深いまちです。すべての場所は跡地で、何かが埋まっているんだと。

 「祝祭」というのは風のように輪舞して、去っていってしまうような。一瞬沸き立つんですが、スッと何も残らない。だからこそ、その一瞬に交わる。今は忘れ去らされてしまった、その跡地である「失われた声」と交わる。そういう声を蘇らせる役割が「祝祭」にはあると思います。



長谷川氏

 「歴史が活性化する現在と未来」というタイトルで話をします。よく現在から過去を見るという言い方をするのですが、「歴史が今を見る」、つまり、「昔が今を見る」と理解していただけたら良いと思います。それは、京都のまちが不思議な場所で、その歴史の積み重ねがそのまま現代につながっていって、現代と歴史、歴史と未来が自在に行き来している、そういう印象をうける場所だからです。

 インターネット世代「雲の人たち」と、実際に体験し、直に確認していていく方法で文化の継承をしてきた世代「森の人たち」の2つの間に今起こっていることが何かというと、分断ではなくて、交流なんです。その交流が非常に面白い。小さな村で、細々とお酒を作っている人たちがインターネットで世界にその情報を発信することで、遠い外国から注文が入るなんてことが起こる。逆もあって、若い人たちが、自分が実感しないということに不安を持ち、「京都に行こう」と言って、実際に行き、そこで見て触って体験したいという傾向がすごくあったりする。そこで、一つの「流れ」が起こっている。そういう風に世界を見ていただけると、見方が変わってくるんじゃないかなと思います。

 ルーブル美術館では、ビヨンセという人気歌手に依頼して館内でミュージック動画の撮影をしてもらいました。モナ・リザやサモトラケのニケ等が登場し、歌の世界的大ヒットと共に、動画を見た大勢の若者が来館するようになりました。ルーブルがターゲットとしていたのは次の世代だったのです。

 パリや京都のように新しいものと古いものが、無理なく共存してけるまちというのは、やっぱりそれなりの度量があります。つまり、そういう歴史的なゆとりがあればあるほど、どんどん新しいものを受け入れていく余裕があるし、生活の中での美、つまり生活の質、美意識がすごく高いわけです。日本人、中でも特に京都の人は意識が高いと思います。そういう部分を、色んな形でハイライトしていくということは、無理して「現代」として特化する必要は全くなく、既存のものをいかに今に繋げて、よりかっこよく見せていけばよいか、ということだけです。少しも大変ではないのです。



並木氏

 古美術を専門にしています。二条城では「盆栽の舟」も実際に見させてもらいました。面白かったし、刺激的でした。

 でも、そうした作品がそこに恒常的にあるべきかどうか、それともイベントとしてあるべきかどうか、ずっと考えていました。

 作品は面白かったのですが、その「面白さ」っていうのが常にあればいいのかっていうと決してそうではないと。ならば、年に1回そういうものが出来るシステムを一方で作らないといけない。それと同時に、京都で常にそうしたものを発信できる場が必要ではないかと。

 京都の歴史は非常に重層的なので、その重層的なもののどこを掘り返したら、どこのどういうものが出てくるかというようなことを常に考えていくと、京都の新しい発信は次々と出来るのではないかと思っています。ときどき、重層的な歴史性のある場所で、面白いものが置かれて、みんなで意外性と新しいところにびっくりする、そんな刺激のあるまちになるんじゃないかと思います。



宗田氏

 京都創生は「文化、景観、観光を守る、継承する」から「何を新しく生み出せるか」を議論するべき時期に来ているのかなと思います。その意味で、二条城をどこまで活用するのか、まちを保全から創造にどう転じるか、ということを考える時期に来ています。

 今世界では排他的で偏狭な思想が渦巻き、テロや紛争が絶えることがありません。しかし、こうした時期だからこそ、文化芸術による相互理解の可能性を推し進める、東アジアというのはそういう課題を今抱えているのではないかと。

 アート、京都だからこそ発揮できる力っていうのは、正にそこにあるのではないかという思いが、アジア回廊には込められていたわけですね。



建畠氏

 アートは多様でありながら、それが単に分断した文化の用語じゃなくて、コミュニケーションの手段になるという意味で、非常に平和的な状況を建設する力になると思います。

 二条城でアジア回廊がありましたけれども、あれは恒常的なものではなく一過性のイベントです。一過性だから許される歴史の読み替え、あるいはパロディーというか、新しいビジョンの提出というか。

 海外のオルセー美術館、テートモダン美術館等は、駅とか発電所といった建物を大胆に改造して恒常的な美術館みたいにしている。そうした両方の要素の歴史の読み替えというのがあって、性格によって、一過性か恒常的かを使い分けながら、歴史に関与したり、歴史を読み替えたり、歴史を未来につなげたりという、そういう必要があるかと思います。

 二条城の試みは、美術館が使えないことで方針転換した結果で、展覧会だとか、建築とは違った、イベント・一過性の関与になりました。一過性の空間を展開するということを、京都でも、二条城でも何年かに1回でもできればと思っています。二条城以外にも他に場所があると思うので、それは、並木先生の話を聞いて、一過性のイベントであるという制約のもとで利用していきます。日本の場合、木造建築が多いので難しいですが、同時に多面的に進めていくということが、京都にとっても一番スリリングな課題として将来につながっていくのではないかと思います。



やなぎ氏

 時代の変化があっても変わらないことは、アートの力というのは、個人の力なんです。

 アートは、すごくささやかな個人的なものから、グローバルなものまで幅広く、色々含んでいますが、アーティストの言葉を聞いてもらえることによって、「京都で何かできる」とずっと思っています。そういう、地面の下で多層を成しているまちだからこそ、そこにアーティストが一人ひとり関わっていくことで、豊饒なカルチャーが生まれると思っています。



長谷川氏

 アートの祝祭、ある意味でスペクタクルが京都で起こることによって、集まる膨大な情報、交流、テイスト、ある意味で富、新しい潤いがそこにもたらされて、色々な出会いが起こる。そこで個々は活性化していく。だから、アートだけではなく、そのアートの後ろにある、さまざまな夢、欲望、情報、テイスト、いろんな期待みたいなものが、「市(いち)」となって交流していく。そういう国際展覧会が、いわゆるファインアートだけではなくて、パフォーマンス、お芝居、あるいはデザイン、建築、そういうものを含んでいくようなものになっていくと、より総合的に生を支える文化の在り処、その「市」としてのそれをサポートする唯一の場所としての京都、というイメージを見せつけていくのではないかと思います。



並木氏

 京都にはさまざまな場所があって、重層的な歴史がありますから、比喩的に言うと、どのくらい掘るかによって、出てくるものが違うわけです。アーティストとかキュレーターが京都のいろんな所で面白い穴を掘って、そこで、そこから出てくる物語をうまく作品にしたり、展示にしたりしてもらうと、アートを介したまちの活性化というのが出来てくると思うので、そのあたりを、自分も関わっていければと思いますし、期待したいと思います。



宗田氏

 19世紀の終わりから20世紀にかけて、隔年で美術の祭典が始まった頃は、パリには世界中から多くのアーティストが集まってきて、紆余曲折を経て域内往来自由のEUができた。

 まだまだ国境がありますが、東アジアの文化都市の取組をはじめとして、若いアーティストは東京ではなく京都に集まってくることで、アートと文化の交流が起こるかもしれない。

 この時代だからこそ、アートの力で京都を活性化したという取組があるのではないかと思います。先生方の取組の意味を、我々京都市民が深く受け止めて、アーティストの声を聴くことが、着実に京都創生を進めていくということではないかと思います。








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