パネルディスカッション
吉澤

田中氏  ありがとうございました。今、色んな御意見をお聞き致しまして、本当にそれぞれ、その道のエキスパートだなと思いました。京都は昔から不易流行のまちと言われまして、奈良が博物館都市だとしたら、京都というのは、変わらないものと変わるものが火花を散らしながら共存して活気をもたらしている。一方でお寺や家元やそして伝統文化その他がしっかり根付き、その一方で、京セラ、オムロン、任天堂など、非常に最先端の企業が京都にあり、根っこは伝統産業に根ざしている。そういう産業も多い。これが京都の非常に大きな魅力になっているのです。外国の方からも、「京都は素晴しい」と言う時にこういうことをよく言われます。

 やはり京都は、権威の都であると、先ほど壇上に上がられていました、京都市美術館長で歴史学者の村井先生がおっしゃっています。公家がいて、伝統仏教の本山があってそしてお茶やお花の家元がある。これは金では買えない。非常に経済政治のまちでして、お金が物を言うけれども京都の伝統そして権威とういうものは金では買えないものだ。これが京都のすごいところなんだと。今日、最初に御発言いただいた大津家元もそのお一人です。

 先ほど家元から古いものと新しいもの、特に新しいものを生むのも良いけれども、ちゃんと新しいものを知って、それから生まなきゃいけないとかそういうお話を伺いましたけれども、家元はいけばなを一所懸命やられていて、こういうものを京都の良さとして、日本全国に発信していく場合、どういうことが必要だとお考えになりますか。

大津

 発信という一つの方法なんですけれども、先ほど、本物というものが京都のまち中にはあらゆるところにごろごろしているという、ある意味恵まれた、ある意味怖いまちだと思います。そういうまちが、あまり自分から「これもありまっせ」「こういうようなのもやりまっせ」というのは、もちろんそれをおざなりにしてはいけないんでしょうけれども、あまり発信と言うようなことばっかりに力を入れる必要は無いんでははと思うんです。それよりもそれぞれの生活であったり、あるいは工芸や美術や伝統芸能や、そういうところをもっとそれぞれが磨いていく。また、市民の方々もそういうものを日常の生活の中に取り入れていく。こういうことをしていけば、発信ということは周りがしていただけるんではないか、と考えております。

吉澤

 非常に京都的なお答えをありがとうございました。私は逆に東京で生まれ育って、梅原先生の著作にあこがれて京都に来まして32年経つんですけれども、本当にこのような質問をすると必ず京都の方からは「そんなこと必要ないんと違いますか」「やることしっかりやってればいいんと違いますか」といつも言われます。本当におっしゃられるとおりなんですが。何か家元、もっと言いたいんじゃないですか?

大津

 雑誌とか出版の方々が京都に来られた時に、まち中をずっと連れて歩きますと、路地というものがあります。そういうところに非常に感動されるんです。しかもその路地の所にお地蔵さんがありますと、もう涙するんです。「京都って素晴しい」って。でも我々は常日頃そこの中にいるわけですから、どこが良いのかもう一つ分からない。だからこういった京都の話をする場合には外から見る目というもの、そういう目を持っておられる方も必要ではないかなと。京都人だけで色々やっていてもなかなか発信ということには進まないのではないかなと思います。

吉澤

 特にいけないのはね、東京のマスコミ、テレビ・雑誌が取り上げる時に、間違った形で発信されることもありますから、そういうことに関しては家元からも厳しく注意をしていただきたいと思います。

 先ほど栗山さんが続きをしゃべりたいとおっしゃっていた。何か看板の撤去とか、地味なことをされているんですね。

栗山

 そうなんです。私は京都のまちに大変危機感を持っております。というのも、京都のまちには町家だけではなくて周囲の風景に大変寄与している大きな御屋敷とか公共の建物というものがたくさんあります。周辺地域に行ってもそうです。そういったものが一旦、相続とかで無くなってしまいますと、その土地が細かく分けられて一つ一つ家が建ちます。まちがそうやって新陳代謝をしていくのは当たり前のことです。建物はいつかは建て替わるんですけれど、私はまちのグレードとして、今壊れていく建物よりも次に建つものは良いものが建たないとまちの資産というか値打ちというものがどんどん下がっていくと思っております。今、まちの景色になっているものが壊されていくつかの建物になりますと、元の建物を超えるような良く考えてある良い建物が建つかというと絶対建たない。これで、京都の資産はどんどん目減りしていると思っています。

 昭和の何年かぐらいは、きれいな瓦屋根がずっと続いているようなところに、モルタル塗りの看板をかけて垂直の壁を作るのが大変流行しました。今、それを取れば、きちっとした町家の形式が現れてくるのに、モルタルの壁で塗り固めるっていうことをやっているのも京都市民です。細かく分かれた土地の中に建つ建物が黄色であったりピンクであったり「これが京都の建物か」という建物がたくさん建ちます。そしてそれにも、やっぱり京都に住む人が入るんです。京都には鋭い選択眼というものがある、というお話がありましたが、そういう面は確かにあるのですけれど、そうでない部分もたくさんある。今、そうでない部分が増殖していると思っています。

 今、外国の観光客の方も増えていますが、外国の資本もどんどん京都に降りています。地方の資本も降りています。外国の方のために町家を解放するし、ホテルや旅館もその対応をする。それは国際都市としては良いんですけれども、本当にきちっとしたものが伝えていけてるのかというと、そのやり方に、私は疑問を持ったり致します。ただ、教えてもらうところもあります。私達は今あるたくさんの蓄積、たくさんの良いものを抱えているのに、それを活用してないなという事です。

 ですから先ほど言ったように、ちょっとのお金を出して、それがどう使われるのかというのをしっかり見ていかないといけない。今、京都のまちの汚いものを取り除くだけでうんときれいになるよというようなまちづくりのやり方もあると思うのです。皆さんがお持ちの資料の中にも「まちづくりファンド」のチラシが入っていると思うのですが、これは私達のような微々たる力の者が大変危機感を持ってこういうものを立ち上げ、少しづつでも、まちをきれいにしていこうという取組なんですね。良い物を、蓄積している物を子供達にきちっと伝えて、子供達と一緒に考えて伝えていく努力をしないと、私は「寄ってくる人は寄ってらっしゃい」と京都は安穏としていたらあかんと思っているんです。ちゃんと良いものは良い、これはだめだというのを公表していく。今は色んな公表の仕方がある。新聞とかマスコミだけじゃなくて自分達だけができるようなホームページなどもあるわけですから、そういったものも使いながら、「京都はここにあるぞ」「頑張っているぞ」と言う努力を私達一人一人がやらないといけない時に来ていると思っています。

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