記念講演:京都市美術館長 村井康彦

 応仁の乱に関連してもう1つよく聞く意見があります。みなさんも聞かれたことがおありだと思いますが、日本の歴史や文化を理解していく上で、応仁の乱以後のことを知っておればよろしい。応仁の乱以前のことは知らなくてもよろしいという意見です。これは内藤湖南という有名な東洋史学者といいますか、東洋学者が大正年間に講演会で応仁の乱について語られた中に出てくる言葉です。そこでの御意見というのは、要するに応仁の乱において足軽という新しい階層が登場してきた。そういう新しい社会階層が出たことによって、古い貴族その他が滅んでいったのだ。あそこで大きく社会は変わっていったのだ。だから、それ以後のことを知っておればいいのだという御意見です。むろん仮にそうであったとしても、それ以前のことを知らなくてもいいというわけにはいかないし、なかんずく京都は応仁の乱以前を空白にしてしまったら京都の歴史がなくなってしまうと思います。したがって、これはその時期の社会変革を強調したものであり、言葉のあやとして受け取っておかれたらいいと思います。私は、大正デモクラシーの中で語られた典型的な言説と思っています。

 しかし、応仁の乱についてはそういうことがあるにしても、15世紀の後半の応仁の乱以後の、ほぼ1世紀における京都の在り方というものは大変重要な時期であったと思っています。いわゆる戦国時代です。といいますのは、この戦国時代には、空間的には本来東西4.5キロ、南北5.2キロありました平安京が、どんどん小さくなり、極限まで小さくなった時期だったからです。右京のほうはほとんどすたれ、民家がなかったという意味ではありませんけれども、左京中心となり、その左京においても上京と下京とに分解を遂げていく。極端な表現をすれば、上京と下京とが1本の野中道でつながっているような有様でした。

 しかし、空間的には一番小さくなった時期ですけれど、その内部の密度は最も濃くなった時代であったと言っていいと思います。一言で言えば都市共同体がつくられ、いわゆる鉾町がつくられたのもこの時代です。そういう都市共同体を母体として祇園祭も盛んになってまいりましたし、あるいはまた、茶の湯とか花とか、あるいは能・狂言といったいわゆる伝統芸能・文化というものがその形を整えた時期がまさにこの時期であります。別の言い方をすれば、私は日本で最初の都市文化として生まれたのがこれら生活文化であったと思っております。まだ余り通用しておりませんけれども、当時の年号、16世紀前半から半ばにかけての時期の和年号を使って「天文文化」というふうな言い方をしておりますが、それは京都を中心にした最初の都市文化であったと思っています。

 ただし、経済力だけで申しますならば、京都よりも更に大きな力を持っていたのは泉州の堺です。当時の記録によれば、例えば名物茶道具を持っているその数が、堺がダントツの1位で、ずっとはなれて2位が京都、3位が奈良という感じで、町人の持つ道具所有は断然堺のものでした。それから茶室。ほとんどが四畳半の茶室ですけれども、それの所有の密度というのは今日のあり方に比してもはるかに堺の町人たちの茶室所有数というか、所有密度のほうが高かったと思います。まさしく黄金の日々、彼らはそういう茶の湯を好いていたわけであります。しかし、この中に堺出身の方がおられたらちょっと失礼しますけれど、江戸期の堺というのは、大坂城下町に主要な町人が引き抜かれていったこと、ことに鎖国で貿易都市であることがだめになったということもあって、その経済力は急速に衰えていく。江戸時代の堺にどのような文化があったであろうかと尋ねても、こちらが知らないだけかもしれないですけれども、なかなか分からないほどのものになってしまった。文化は経済力がなければ生まれない、育たない。しかし、経済力だけで育ったのでもないというのが京都の文化だと思います。

 そして、そのことに深いかかわりを持っていたのが京都の住民構成というものではなかったろうかと思います。主役・脇役と、役柄はかなり動いておりますけれども、天皇、公家、それから武家、私たちは余り武家の存在のことに注目しませんけれども、中世の京都には公家よりもはるかに多くの武家が住んでいて、これが政治・経済的な問題はむろんのこと、文化的にも大きなかかわりを持っていきました。それに神官・僧侶、寺院の存在、神社の存在、新しく成長してくる町衆たち。これほど多様な階層構成を持っていた都市は他になかったと思います。その点、先ほどの堺は町人を中心としたある意味では単純な構成をとっていたということがその後のありようを大きく変えていったものだと思います。多様な人間の共存とその相互影響というものの中で京都文化は集積され、複合されていったと言っていいのではないでしょうか。

 ところが、先ほど申しました明治2年の東京遷都で京都はどうなったか。天皇は去り、公家は去り、武家も去っていった。単に人口が一時減ってきたというだけではなくて、人口構成も京都は単純化してきているというふうに思います。今日では他の都市とも共通するありようになっていると言ってもいい。他都市と最も違うのはやはり社寺が多いということでしょうか。それにかかわる様々な社会のありよう、産業のありよう、文化のありようが京都の特徴になっている。したがって、バブル時代に寺院が市中を離れて、外へ出たことは、大学が郊外あるいは他府県に移ったということとともに、京都の自殺行為であったと言っても過言ではないと思います。  

 京都のありようを考えていく上でもう1つ考えておくべきことは、ほかの多くの都市が第二次世界大戦で廃墟になった、空襲によって焼かれた。戦後はいわばゼロからスタートしたわけですけれども、その結果色々な都市が再生された。それが成功したか失敗したかはともかくとしても。ところが、京都はほとんど焼けなかった。実際には私が早い時期に勤めておりました京都女子大学のある馬町あたりには爆弾が落とされていて、京都は全く戦争の被害を受けなかったわけではありませんけれど、焼夷弾で町が焼けるということはなかった。つまり京都には集積と複合された文化がどっさり残っていて、それを背負ってスタートしたということです。これも先ほどの御提言の中にありましたけれども、最近の京都は変化、それも悪いほうの変化が目につく。これは京都が保存されてきたからこそ殊さら顕著に目立つのだと思います。京都における文化の集積や複合が京都を特質づけている根本的な要素であると同時に、そのことがまた我々にとっては手かせ足かせにもなってきているということ―少し逆説的にいえば―を認識しておかないといけない。そのことをちゃんと理解してかかっていかなければならないと思います。

 最後に、江戸時代京都に来た江戸の人間が様々な京都見聞記を残しておりますが、その多くは辛口の京都批評であるのが特徴的です。なかには、さすがは京都だといって感心するものもおりますけれども、何だこれが都か、それなら江戸にもあるではないかといった類が多いのです。そういう中の1つでおもしろいと思いましたのは、京都は周囲が山に囲まれていて息苦しい。だから、雨が降った日は山が見えないからかえって晴れ晴れしいというふうなことを言っている江戸人の意見です。江戸はだだっ広くて、遠くに筑波山や富士山が見えるだけですから、周囲にごく近く山がある京都は本当に息苦しかったのかもしれません。多少は大げさに言ったものでしょうけれども、しかし確かに京都は空間的にも限られた中で、そこに多くの人が長い年月をかけて熟成していった、そういう文化であり場所であったと思います。清少納言が『枕草子』の最初に「春は曙。ようよう白くなりゆく山ぎわ少しあかりて云々」と言っておりますように、山―自然と人間の生活の場がごく近い関係、程よい関係にあった、そういう中で王朝時代の人たちは美意識を磨いていったのだ思います。京都や京都文化はそういう自然とのかかわりの中で生まれ育った、濃密に熟成された文化であったと思います。

 今日はだからこれからどうしろというのだ、という、そのどうしろの部分は何も申し上げませんでした。むしろ先ほどのこれからなすべき御提言の中に既に出されていると思うのですが、私たちは京都のありようというものをよくよく認識した上で、これからの運動に取り組んでいく必要があるのではないかと思います。
 どうも失礼致しました。

(拍手)

司会

 村井先生、どうもありがとうございました。
 本来ですと、意見交換の時間もとるべきところではございますが、時間の都合により省略させていただきますので御了承の程、よろしくお願い致します。
 それでは、これを持ちまして、設立総会を閉会させていただきます。
 皆様、本日は、どうもありがとうございました。

(了)

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